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2017年9月 1日 金曜日

9月1日:書架より『愛情の心理学』(2)(#0938)

9月1日(金):<書架より>『愛情の心理学』(2)

 前項に引き続き、『愛情の心理学』の残りの5篇を読んでいこう。

4「自慰論」
 これは、1912年のウィーン精神分析協会のシンポジウムにおけるフロイトの閉会の辞を採録したものである。通常の論文のように何かの結論に至ろうとするものではなく、シンポジウムで共有された理解と意見の一致を見なかった見解などを押さえ、今後の問題を提起していくという形となっている。
 自慰に関しては、意見の一致を見ている見解もあれば、そうでない見解もある。後者に関してシュテーケルによって提起された疑問を取り上げ、特に自慰は有害か無害かといった疑問に関して、フロイトが自身の見解を述べていく。
 フロイトの指摘の中で、僕がなるほどと思うのは、多くの人が自慰を一つの現象とみなしてしまうという誤りをしてしまうことである。フロイトは自慰を、乳幼児自慰、小児自慰、思春期自慰と三つに区分する。それぞれを区分した上で、議論を進めるべきだとフロイトは指摘しているわけである。
 自慰が有害であるか無害であるかという疑問に対して、自慰が有害であるということは偏見に過ぎない。それが有害になるのは、性愛目標が固着し、性的発達が停滞してしまう事態である。それがフロイトの見解であるようだ。

5「無常ということ」
 フロイトが友人と詩人とで散歩した時のエピソードから始まる。詩人は、美しい花もすべて消滅すべき運命にあることを嘆く。この詩人の厭世的な無常観から、悲哀の感情、さらに対象喪失とリビドーの行く末を論じ、新たに創造される美の賛美へと至る。
 この小編は僕の好きな一篇だ。文化論としても優れているし、何よりもヒューマニストとしてのフロイトが感じられて、そこが良い。

6「女性同性愛の一ケースの発生史について」
 これは女性同性愛者の娘の事例である。18歳の娘が、年上の、あまり評判の良くない女性と恋仲に陥った。父親にはそれが悩みの種であった。ある時、娘が恋人の女性と一緒に歩いているところを父親が目撃し、その直後、娘が自殺を図った。自殺は未遂に終わったが、この事件によって、娘は治療に導入されることになる。それから紆余曲折があるのだけど、最終的にフロイトの診療所を訪れることになった。
 フロイトはこの娘さんに精神分析療法を施すが、芳しい結果に終わらず、早期の中断を招いた。フロイトの自己診断では、この中断の理由は、娘の訴えの中にある無意識の情熱をフロイトが見落としていて、それを十分に取り扱うことができなかったからだということになるだろうか。
 治療は中断したとは言え、フロイトはこの娘の同性愛発生の歴史を明確に跡付けていく。彼女は神経症的ではなかったし、潜伏期を経てエディプス期に入ろうとしていた形跡がある。母親との同一化を達成していた証拠がある。しかし、この母親が妊娠し、彼女にかなり年の離れた弟が生まれたことによって、母親との同一化が動揺し始めたようだ。この頃から、彼女は幻滅し、男性に背を向けるようになった。このことを考えると、恋人の年上女性は、母親の代用としての意味があることになる。娘はこの女性を男性的に愛したことが窺われるので、娘にとって、この女性は同性愛的な欲求と異性愛的な欲求とを同時に満たす存在だった。
 フロイトが十分に取り扱うことができなかったのは、この娘の陰性転移だということになるようだ。中断は、フロイトの方から提案されている。この娘に女性の分析家で受けることをフロイトは勧めている。
 さて、ケースについては他にも興味深いところもあるが、逐一記述するわけにもいかないので、これくらいにするとして、同性愛に関しては、決して単純な問題ではないという重要な指摘を取り上げるにとどめよう。
フロイトは、同性愛には三系列の性格が混合していると言う。それは、身体的性性格(肉体的両性具有)、心的性性格(男性的・女性的体制)、性愛対象選択の三系列である。同性愛テーマの文学は、第三の性格だけを取り上げているという指摘はもっともだと僕も思った。

7「マゾヒズムにおけるエネルギー配分の問題」
 人間が快楽原理に生きるとすれば、マゾヒズムの存在は不可能である。マゾヒズムの現象をどのように考えるべきだろうか。
 フロイトはマゾヒズムを性愛的、女性的、道徳的の三種に分ける。性愛的マゾヒズムが根本にあるもので、残りの二つのマゾヒズムは後から生じてくるものである。道徳的マゾヒズムとは、無意識の罪悪感である。女性的マゾヒズムというのは、非力な女性のように、無力な幼児のような在り方に顕著になるものである。
 根本にある性愛的マゾヒズムから、どのようにして女性的マゾヒズムが生まれ、道徳的マゾヒズムが生まれるのかの経緯をフロイトは考察している。自我と超自我との葛藤から処罰への欲求が生まれることなどが論じられる。
 また、道徳なるものがどこから出てきたかに関しても論じている。僕はここがとても納得できた部分だ。道徳的要求があって欲動断念が生じるのではない。その逆である。欲動断念が最初にあって、それが良心を形成し、道徳的要求を生み出すのだとフロイトは述べる。道徳的マゾヒズムは欲動が混和することの証拠である。
 本論文では、非常に誤解されることの多い、死の欲動、並びに死の欲動の一部を形成する涅槃原理なる概念が登場するが、それらの概念を抜きにしても本論文は説得力があると、そのように感じた。

8「エディプスコンプレクスの消滅」
 エディプスコンプレクス(両親と子供とのしがらみ)は、子供の中でどのように解消されていくかに関する見解。去勢不安によってそれが解消されると信じられていたが、それが頷けないものになってきている。後に両親との同一化並びに自我理想の形成へとこの問題は展開されていく、その過渡期に当たる論文ということになると思う。
 子供のリビドー固着は同一化によって放棄される。超自我が形成され、この内面化された父親によって、近親相姦の禁令が永続化し、エディプスコンプレクスに付随していた性的努力は非性愛化され、昇華の道を向かい始める。ここから潜伏期が始まる。
 エディプスコンプレクスにまつわるリビドーの行方を追うのであるが、これは男子と女子とでは異なる。女子の見解は、後の研究者たちのよって批判されるのであるが、神経症的な女性の中にはそういう経験をする人もあるということも言われていて、フロイトの観察の正しさと理論化の巧みさには感嘆するばかりだ。

 以上の8論文を収録している。
 この本は、僕がフロイトに傾倒し始めた頃に入手したもので、「う~む、わからん」などと呟きながら、熱心に読んだという思い出深いものである。
 この思い出深さということだけで、僕の唯我独断的評価は5つ星である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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