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2017年4月12日 水曜日

4月12日:内省録第4回―解説編

内省録:第4回―解説編

(1)振り返ると、本当はできないこともなかったのではないかとも思う。どこかで合理化している自分を感じている。一方で、できる時にやればよいくらいの気持ちでいようという気持ちもある。あまり完全主義的にしないようにしようとは思う。その意思表明のような始まりである。

(2)ここで僕がどのように見られるかということ、他人の目を意識している。僕はそれに対して、一つの自己弁明をする。

(3)内面のことにかかりきりではなく、ある程度の外的活動性は維持していると、弁明を続ける。後半あたりから読み手のことが意識から離れて行く。

(4)ここで僕の一つの願望が語られる。常に生産していくこと、生産的に生きたいという願望である。

(5)僕はここで産出と生産の違いを述べる。僕なりの見解である。ただ生み出すだけではなく、それを洗練させたいという、もう一つの願望が綴られることになった。

(6)ここで願望から話が離れる。願望を語ることは、一つの観念を語ることであり、観念を語ることしかできないとすれば、自分がしっかりしていないということである。そして、精神的に苦しい時や圧迫感を覚えることもあり、自分がしっかりしなくなりかねないという危惧が語られる。こういう思考の流れがあるようだ。言い換えれば、僕は自分の願望を語ることさえ、自分の悪い兆候として見てしまうということだ。

(7)体験したことは、忘却され、失われてしまう。自分の体験を失えば失うほど、自分が曖昧になっていくだろう。そうして失われていくことの不安を語っている。ここまでの流れは、(1)~(3)でいささか読み手の目を意識しており、(4)~(5)で読み手が理解できるようにと僕の願望を綴り、(6)~(7)で願望のような観念しか語れない自分に不安を覚えているということが読み取れそうである。

(8)不安な感情から、本が書けないという不安材料へ連想が広がっている。書くことができないだけではなく、テーマを変えようかと思うことも、自分が揺れ動いていることの証拠として見てしまっている。ここにもはっきりしなくなっている自分を僕は見出していることになる。

(9)ここで僕の体験したクライアントのことが思い出されている。彼らは一様に僕の価値下げをし、攻撃したわけである。第3回ではこれが通奏低音として常に響いていたが、今回はかなりはっきりと物を言っている。前回よりも幾分エネルギーが回復しているように思う。

(10)僕ははっきりと自分に目を向けなくなっている。代わりに彼らを見ている。僕から見て、彼らが何をしているかということを、かなり率直に口にしている。

(11)ここも一部は僕の自己弁明である。彼らが人を攻撃するように、僕も今彼らのことを非難している。でも、僕は彼らとは違うのだということを主張することで、僕は彼らとの差異を打ち出そうとしている。ここでの差異は、対象恒常性に関するものであり、他者の記憶に関することである。

(12)彼らとのもう一つの差異をここで綴る。受け取るばかりの人間とは、彼らのことである。口唇期的な貪欲さが彼らにはあるが、僕は与えようとする人間であると主張することで、彼らとの差異を表明しているわけだ。

(13)さらに、心の中で他者を再体験できること、語り直すことで恩義を改めて感じることなどを語る。これも彼らとの差異を打ち出していることになる。

(14)ここで特定のクライアントから焦点が離れている。自己中心的すぎたり、他責的過ぎる人が多くなったという印象が語られる。どうやら僕の中である種の制止が働いたようである。制止が働かなければ、彼らの攻撃へと話が展開していっただろうと思う。

(15)過去には僕にもそういうところがあった。ここで少し自分に目が向き始めている。先ほどの制止によるところが大きいと思う。自分が助かることばかり考えていると他人が冷たく見えるというのは、僕の実体験から得た知識なんだけど、同時に彼らに対しても言っているという感じがしていた。

(16)ここでようやく特定のクライアントから完全に目が離れた。過去において出会ったその種の人のことに話題が移っていく、

(17)最初に思い出されたのは中学時代の人だった。僕に責をなすりつけて、自分だけ助かろうとした人だった。

(18)続いて、高校時代の人のことが思い出される。この人も自分だけが助かろうとしている人だった。彼らのことを詳細に書かないのは、僕の中で虫唾が走るようになっていたからだ。とても思い出す気にもなれないし、綴る気にもなれないと感じていた。

(19)僕は人間を理想化しない。つまり、彼らにもいいところがあるなどと言って、彼らを弁護するつもりなんてないのだ。そして、どうしようもない人間のままでいること、改善に踏み出さない彼らこそ、どうしようもないのだと綴る。いささかキツイことを言っているのだけど、僕の本心である。

(20)そこから改善に踏み出す人のことへと連想が流れる。本当に優秀なのは、他者がそれを肩代わりしてくれないということが本当に分かっている人である。

(21)急に話題が変わったように見えるが、要するに、幼児期神話を信奉している人は改善に踏み出すことがないということを言おうとしているのだ。

(22)上述のことをより具体的に述べ直している。自分が体験し損ねたこと、経験し損ねたことを、今からでも学んでみよ、という一つの挑発をしているわけだ。

(23)僕はここである特定のクライアントを念頭において語っている。親のせいで憎悪を抱えてしまったというなら、それはそれでいいだろう。和解するよりも憎悪し続ける方がはるかに安全だ。僕はそれを無理強いはしない。しかし、本当に恨んでいるのは誰であるかを明確化するべきだということである。誰彼かまわず憎悪を振り向けるような人がいるからである。

(24)やはり上述のことを述べているのだけど、要するに、憎悪を抱え続ける人は、本当は苦しいことから回避している人なのだ。

(25)僕にもそれがある。それを抱えるクライアントと接していると、その感情が刺激される。つまり、彼ら、ここで思い出されている特定のクライアントがそうだったということなのだ。

(26)僕は過去の憎悪感情を掻き立てられる。それが蘇るからこそ、その感情が誰に対してのものであり、誰に対してのものでないかをはっきり意識していなくてはならなかった。僕はそれをやった。

(27)自分の感情の差異を見出すこと、これは難しいことである。Aさんに対して恨む気持ちがあり、Bさんに対しても恨む気持ちがある。どちらに対しても僕は同じような感情を体験している。それでも、両者の感情に少しでも差異があれば、それは同じ感情ではないのだ。これを見出すためには、かなり意識的に自分の感情を掘り下げて見ていかなければならないのだ。

(28)そのような差異が見いだせなくなった時、僕の中に混乱が生まれるということである。憎悪感情は誰の心にもあり、それが他者から刺激されることもあるのだ。

(29)憎悪感情は誰にもある。ただ、それが意識により近い人とより遠い人との違いがあるだけである。

(30)憎悪感情に対する自説をずっと展開していることになるが、これは僕が一番重要だと考えている部分である。憎悪感情は、遠くに置くか、小さいものにしていくか、無害なものにしていくしかないのである。無くそうと試みることは間違っており、それは新たな憎悪を生み出す温床となりかねないのである。

(31)憎悪感情の起源は幼児期にある。幼児期のものがそのまま維持されるわけではないが、幼児期にその雛形が形成されると僕は考えている。だから誰にも憎悪感情はあるのだ。

(32)自分を知ること、自分を理解することとは、自分の中にあるそうした憎悪や破壊性を知っていくことである。そこに目をつぶるような自己理解は欺瞞である。

(33)欺瞞から生まれた連想だ。あなたのいいところを教えてとか、自分のいいところを認めて自分で褒めなさいというのは、僕には何の役にもならない見解だ。こういう見解を支持する臨床家を非難するつもりはないが、僕だったらウンザリするということだ。

(34)自分の中にある「悪」に目を向けないということは、それを意識から完全に切り離すということであり、それをしている人は完全な正義を実現している人ということになるが、それ以上に狂気の沙汰はない。これも僕の自説でしかないかもしれないが、完全に正義な人ほど残酷なのだ。自分の憎悪や破壊性に気づかず、正義の名の下にそれを平然とやってのけることができるからである。

(35)僕が「正常」であるためには、僕の中の「異常」な部分、憎悪や敵意、破壊性を見なければならない。これは逆説であるが、僕は真実だと思う。

(36)いささか分かりづらい展開だと思われるだろう。要するに、「悪」を見えるところに置いておかなければならないけど、すぐに意識に上がるようでは拙いわけで、さまざまな「善」を間に置いていなければならないという比喩である。

(37)上述の言い換えである。

(38)僕はここで「悪」を遮蔽するものを述べようとしていた。「悪」以外のものがたくさんあるから、自分と「悪」との間に距離を保てるわけである。

(39)一部の人、反社会的な人は、愛とか赦しといった言葉を極端に嫌悪する。僕はここでもある特定のクライアントを思い浮かべていた。

(40)愛を嫌悪するのは、愛を切り離しているのではなく、憎悪を切り離しているのだ。ここは矛盾のように聞こえる個所だ。

(41)つまり、憎悪を抱えていて愛が中和してくれるのではなく、憎悪を切り離すという処理をしているから、愛なんて何の役にもならないという観念が生まれるのではないかと、僕はそのように思うわけである。

 全体として観念的な話にしかならなかった。思考だけが流れていたようだ。そこで無意識的に働いているのは、自分と彼らとの差異を打ち出したいという欲求だったように思う。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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