blog2

2017年4月12日 水曜日

4月12日:内省録第4回―内省編

内省録:第4回(平成29年4月12日)

 前回から一週間空いた。その間に一度くらいはこれをしようと考えていたのに、あれやこれやで多忙となり、できなくなってしまった。この内省録をするためには、中断されることのない時間を60分から90分は確保しなければならない。それが難しかったりする。まあ、できる時にやっておくくらいの気持ちでいようとは思う。(1)
 僕はこういう形で自分のことを語ったりする。知らない人が見れば、僕が四六時中自己観察をやっているような人間に見えてしまうかもしれない。実際はそんなことはない。この内省録も週に1回から2回という程度だし、日頃のブログでも、一日のわずかの時間だけ自分自身の体験したことを振り返る程度である。僕は内面を大切にしたいと思うし、同じくらい外側の世界のことをも大切にしたいと思う。心の中のことだけでは生きていけないのだ。(2)
 日々、ある程度の活動量は維持している。日によっては調子がいい時もあれば悪い時もある。全体的にはそれなりの活動をしている。活動できなくなることを僕は恐れる。それは生きながら死んでいるも同然であるからだ。僕が生きている限り、僕の活動が生まれることになる。(3)
 生産的に生きたいと思う。非生産的な生は送りたくないと思う。何かを産出していきたいと思う。この文章だって僕の中から産出されたものである。常に何かを生み出し続けたいと僕は願うわけだ。(4)
 しかし、産出されたものは、篩にかけられ、洗練されなければならない。ただの産出は生産とは異なるものだ。生産の前段階にあるものでしかない。思想も産出されるが、それを生産された思想にしていかなければならない。体験も、やはり、僕の中で生まれるものではあるが、それを伝えるためには生産していかなければならないように思う。(5)
 心理的に安定はしているが、苦しい感じがある。ダウンしてしまうほどのものではないけど、精神的に圧迫感や焦燥感に駆られることもよくある。こういうとき、人は自分の体験を語れなくなるものだと、改めて思う。具体的な自分がしっかりしていないと、僕の話すことはすべて観念的なもので占められてしまう。(6)
 日々、何かの体験をしている。この体験は言葉にして表現されないと、自分のものになっていかない。よっぽど印象深い体験でない限り、すぐに忘却されてしまう。僕はそうして体験が失われてしまうことを恐れているのだ。何かを感じ、何かを体験している。それを常に確認したいのだ。ところが四六時中その確認に費やすわけにもいかない。気がつくと、何を感じていたのかわからなかったり、何を体験したのかがはっきりしなくなっていたりする自分に気付く。これは良くないことだ。(7)
 本が書けなくなっている。書こうとしたテーマが、今の僕には興味が持てなくなってしまい、別のテーマに興味が移ってしまっている。いっそのこと、こちらを本にしようかと今日は考えた。今現在の自分の頭にあるものを書いていく方がいいだろうとは思うのだが。しかし、書けなくなったのは僕の興味が移行したためだけではない。僕自身が自分をはっきりさせられなくなっているからだ。俗な言い方をすれば、僕は自分に自信がなくなっているのだ。こんな言い方は好きではないのだけど、分かりやすく言えばそういうことになるだろう。(8)
 クライアントの攻撃に晒される。それを起こさせないように上手くカウンセリングをやってきても、必ずどこかで破綻する。彼らの側で抱えている問題のためにそうなるのだ。いい調子で続いている関係をそのまま維持していくことの方が、今この瞬間の不快感情よりも重要なのであるが、彼らは瞬間的な感情ですべてを破壊する。関係を壊すだけなら、勝手にやってくれたらいいものの、彼らは対象を破壊してから関係を壊す。いちいち面倒なのだ。(9)
 彼らはそれでどれだけの人を傷つけてきただろうか。彼らはそれでも許されて生きているのである。しかし、こんな考え方を彼らは嫌悪する。自分こそが被害者だと信じていたりするからである。他人に感謝することも、赦しを与えられているということも、彼らは決して見ることがない。反社会的な人になればなるほどそうである。(10)
 彼らと僕とがたった一つだけ違う点があるとすれば、そこである。僕は人に冷たい人間だと信じている。決して優しい人間ではないだろう。それでも、僕には僕に良くしてくれた人たちの思い出があるし、彼らを忘れることはできない。僕を生かしてくれた人たちの存在を僕は忘れられない。彼らがいなければ、僕は生きていけなかっただろうし、仮に生きていたとしても、ろくな人間にはなっていなかっただろうと思う。(11)
 僕もまた多くの人に助けられている。僕は僕でできる限りのことをして返している。人から受け取り、また人へ与えていく。この感覚をかろうじて維持できている。受け取るばかりの人間ではないのだ。(12)
 また、恩を忘れないように心がけているつもりである。知らず知らずのうちに人に迷惑をかけてしまっていることもあるだろうし、人が僕によくしてくれているということに気付いていない場面だってあるだろう。僕たちは決して自分の行為を完全には理解していないのだ。だから、体験を語りなおしてみなければならないのだ。その中で、その時は気付かなかったけど、あの人がよくしてくれたなあとか、我慢してくれていたんだなあなどと思えたら、僕は決して独りではないのだ。僕の中で恩人が生まれてくる。彼らの行為のかけがえのなさを僕は改めて体験するのだ。(13)
 そういう体験をしないクライアントたちも多くなったと思うことがある。自分が自分がと、自分のことに没頭してしまっていたり、他人はすべて加害者であるかのように体験していたりする。クライアントに多少はそういう傾向があるのは仕方のないことであるが、なんだか一昔前よりもひどくなった気がする。きっと、人間がおかしくなってきているのだろう。(14)
 僕も一時期はそうだった。自分が助かることばかり考えていると、人がとにかく冷たいと感じられてくるものだ。彼らは普通のことをしてるのだけど、僕が自分が助かることばかりを考えているので、いわば、なんで僕を助けてくれないのかという不満しか生まれてこなくなるということだ。(15)
 振り返ると、自分が助かることしか考えていないといった自己中心的な人間は何人かいたように思う。自分が助かるために、平気で友達を売ることができるような奴だ。(16)
 中学生の時に非常ベルを押した人がいた。当時は、僕はその人とはそれなりに仲が良かった。彼が非常ベルのボタンを触っていたのだ。それでウッカリ押してしまったという次第だ。先生たちがかけつけてきて、彼に何があったのかを聞く。誰が押したのだという先生の質問に、ボタンを押したのは僕だと彼は先生に言っていた。僕はそれを聞いた。彼は自分で押しておきながら、事が大きくなると、僕にすべてをなすりつけようとしたのだ。自分だけが助かろうとする人間なんてそんなものだ。(17)
 高校時代にもカンニングだけきちんとする奴がいた。こいつはどうしようもない奴だった。中学時代の彼の方が人間的にまだましだという気がする。自分は勉強せずに、勉強した人間の答えだけ写させてもらって、それで進級なり卒業なりをしていこうという輩だった。(18)
 僕は人間という存在を理想化しない。人間とは素晴らしい存在だなどと言うつもりはない。人間ほど汚い存在はいないかもしれない。まあ、それはいいとしよう。結局のところ、人間と言ってもいろんな人間がいるもので、どうしようもない人間もいるのである。僕はそこははっきり明言する。要は、どうしようもない人間が、どうしようもない人間のままで生きている人間が、一番どうしようもないのである。(19)
 改善に踏み出す人はまだましである。さらに、その改善がすべて自分にかかっていると洞察できる人は優秀である。他人が肩代わりしてやってくれることではないのだ。(20)
 僕は幼児期神話をほとんど信用していない。幼児期にその人の基本的な部分が形成されるとしても、幼児期ですべてが決まるものではないと考えている。従って、親の育て方が悪かったから、自分がこうなったというような説に僕は賛同しない。幼児期がそのようなものであったとしても、僕たちは後の人生において学ぶことができるし、学びなおしの場が与えられることもある。あまり宿命論的、決定論的な見方は慎んだ方がいいように思う。(21)
 もし、人の愛が分からないと言うのであれば、今からでも学んでいけばいい。感謝することができないのなら、今からそれを学んでみればいい。それだけである。手遅れのことなんて何もない。憎悪を抱えている人にとって、それは難しいだろう。幼児期に挫折した人にとってもそうかもしれない。しかし、やってみる方が、やらないよりも、はるかに有益であると僕は思う。(22)
 もし、人を恨んでいるという人がいるとすれば、僕はその人の憎悪を除去しようとは思わない。ただ、誰を本当は憎んでいるのかは明確にしておいて欲しいと思う。そして、誰を憎み、誰を憎むべきでないかを、その都度よく考えて欲しいと願うだけである。恨んで生きることは苦しいことだけど、和解の苦しみに比べたら取りに足りないものである。より大きな苦しみに耐えられないというのであれば、より小さな苦しみを甘受している方がいいだろう。(23)
 憎悪に生きることは何も苦しいことではない。本当に苦しいのは、憎んでいる相手と心的に和解する時である。人はこれにたまらなく抵抗感を覚えるものだと思う。赦せない相手を赦さなければならない時が一番苦しいのである。その苦しみに比べたら、そのまま恨み続ける方がはるかに安泰なのだ。(24)
 僕にも恨んだ人が何人もいた。和解したとは言いがたい人もあるが、少なくとも、今では彼らに対して恨みの感情はない。彼らのことで煩わされなくなっているためか、今ではあまり気になることがない。しかし、クライアントの憎悪感情に触れた時とか、憎悪の対象にされた時には、その感情を思い出す。(25)
 過去の感情が甦ってくるからこそ、僕はしっかりそれに目を向けなければならない。今、人を恨みたい気持ちになっている。本当に恨みたいのは誰であって、誰ではないのか。明確に分けていかなければならない。(26)
 少なくともクライアントではない。僕のこの感情にクライアントは無関係だ。彼らはただ一つのきっかけにすぎない。彼らが向けてくるもので、僕の中のものが触発されただけなのだ。彼らから攻撃されることもある。しかし、攻撃は攻撃だ。それで生じた反応と、僕の心の中で甦ったものとは区別しなければならない。(27)
 こうして僕の中に混乱が生まれる。そこで、何が僕の中にあるもので、何がそうではないのかをはっきりさせる必要に迫られるわけだ。激しい敵意や憎悪は僕の心を掻き乱す。憎悪はそうして新たな憎悪をもたらしてしまう。どの人の中にも、多かれ少なかれ、憎悪の感情はあるものだ。だから、憎悪感情を刺激されることはどの人にも生じうると僕は考えている。(28)
 人によってはそんなことはないと反論するかもしれない。それはそれでいい。その人の考えだ。僕と違っていたって、何の問題もない。ただ、憎悪が占めている場所にも人によって違いがあると言う点だけは押さえておこう。その憎悪感情が、意識にずっと近いところにある人もあれば、意識からずっと離れたところにある人もある。前者は常に憎悪感情が掻き立てられる人である。後者は、穏やかな人であるが、機会があれば、その感情が意識に近いところに戻ってくる可能性のある人たちである。(29)
 そう、憎悪とは決して消えない感情であり、体験なのだ。これをなくそうと努力するのは間違っている。不可能だ。ただ、それを意識から遠いところに置いておくか、それをより小さいもの、無害なものに変えていくかしかないのだ。(30)
 僕たちは皆幼児期を経験している。自分ではどうすることのできなかった時代だ。何かをしようにも能力がなく、相手に伝達しようにも通じる言葉をもたず、交渉しようにも手段がまったくなかった時代だ。みんなこの時代を生きている。だから、どの人にも憎悪感情があるはずなのだ。(31)
 自分にはそんな感情なんてないなどと自惚れてはいけない。どの人にもそれがしっかりとあるのだ。自分を知るとか、自分を理解するとは、畢竟、自分の中にある憎悪や破壊性を知ることなのだ。それ以外の自己理解行為はすべて欺瞞であると言っていい。(31)
「あなたのいい所を教えて」と、僕が以前受けたカウンセラーは僕にそう言った。その人はまだ見習いの人だったのだけど、僕はこんなことを質問されてしまう自分が嫌になった。最近も、あるクライアントが他のカウンセラーさんとの経験を話したのを聴いた。その人の受けたカウンセラーは、「あなたのいいところを見つけ、自分でそれを褒めてください」などと助言したそうだ。僕がこの助言をされたら、僕は首を括りたくなるね。(32)
 僕は僕の長所を見つけたいとは思わないし、それを褒めようとも思わない。褒められたいとも思わない。他の人は違うものを求めても構わないことなんだけど、僕は僕のカウンセリングには僕の敵意や憎悪、破壊性こそ、もっと取り上げて欲しいと願うだろう。長所を伸ばすよりも、僕の中にどんな破壊性があるかを教えて欲しいと願うだろう。(33)
 自分の悪に気付かない人間は恐ろしい。悪を切り離した人間ほど恐ろしい存在はないと僕には思える。それは完全な正義なのだ。そして、完全な正義であることほどの狂気はないのだ。そういう人が僕には怖い。正義の名の下にて、残酷なことが平気でできるような人だ。(34)
 ここは逆説めいている。僕が狂気に至らないためには、あるいは精神病にならないためには、僕は自分の悪をしっかり抱え、監視しなければならないのだ。決して、それを切り離したり、自分にはそんな部分なんてないといった欺瞞をやったりしてはいけないのだ。それは僕の中にも確かにある。それを見ていなければいけないのだ。(35)
 聖書の中には「悪を遠ざけよ」といった教えがあるが、これは決して悪を切り離せと言っているのではない。それを自分から遠いところに置きなさいということなのだ。そして、自分と悪の間に、さまざまな良いものを置いていかなければならないということなのだろうと思う。悪を遠くに置いても、自分と悪との間に何もなければ、それはいつでも身近に迫ってくることができる。それを見える所に遠ざけておきながら、それとの間に適度な遮蔽物を作っていかなければならないのだと僕は思う。(36)
 そうなのだ。人は自分のいいところを見るよりも、自分の中の悪、敵意とか憎悪をこそ、きちんと見ていなければいけないのだ。そして、それを見ると言っても、常にそれに触れていなさいという意味ではない。それを見える限度の位置まで遠ざけた上で見ることなのだ。(37)
 僕の中にも悪がある。しかし、あるのは悪だけではない。それ以外のものもたくさんある。感謝や恩、愛情なんかもある。今日はその話に入れそうにないけど、いずれ、そういう話を展開してみてもいいと僕は思っている。(38)
 一部の人は、愛とか友情といった言葉を嫌悪する。反社会的な人ほどそういう傾向があるように僕は思う。彼らによると、こうした言葉はきれいごとでしかないって感じられるようだ。そう思うなら構わない。その人の考え方や認識はその人のものだ。そこを無理に変えようとは思わない。(39)
 もし、そうした言葉がきれいごとであって、嫌悪するのであれば、それはその人が悪を切り離している証拠ではないかと思う。自分の中の悪を切り離しているので、愛や友情なんて言葉に嫌悪するのだと思う。もちろん、そういう人ばかりではないということは押さえておかないといけない。(40)
 つまり、その人にとっては、愛や友情が憎悪を中和してくれた経験がないのだと思う。中和してくれたとしたら、愛や友情をもっと大切なものと感じるだろう。そんなものが中和してくれないから嫌悪するのだ。そんなものは何の役にも立たないと感じているのだと思う。そして、愛や友情で悪が中和されているのではなく、かなり無理をして悪を自分から切り離しているのだと思う。これだけ苦しんで悪を追放しているのだ、愛や友情なんて何の役にも立たなかった、そんな言葉はきれいごとの嘘八百だ、大嫌いだ、そういうことを彼らは言っているのではないかと思うことさえある。(41)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

カテゴリ一覧

カレンダー

2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

月別アーカイブ