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2017年4月 4日 火曜日

4月4日:内省録第3回―内省編

内省録:第3回(平成29年4月4日)

 まずは今日のことから書こう。今日は定休日で、お墓参りに行ってきた。先ほど帰ってきたところだ。このお墓参りであるが、前々から行こうと考えていながら、なかなか実現しなかったことだ。およそ一年ぶりに墓へ参った。(1)
 家からお墓まで6キロほどの道のりだ。山の方にあるので、往路は登りばっかりだ。途中、勾配のキツイところが二箇所ほどある。霊園に入ると、最後の急勾配があって、ラストは階段である。こういうコースだ。一応、距離が長いのと上り下りがあるということで、杖を携えて行った。(2)
 家を出る。国道に出る。そこのコンビニでタバコを買い、一服しながら、この後に待ち受けている難関に思いを馳せる。お腹が痛くなってきた。これは不安を予期してしまったからだと僕は判断した。こういうときは、思い切って一歩を踏み出すに限る。(3)
 歩き始める。最初の難所の坂道を通過する。その途中でもう一度お腹が痛くなったけど、こんなの気のせいだと言い聞かせて、構わず歩き続ける。(4)
 坂道を通過する。この後、しばらくは緩やかな登りである。一つ難所を通過すると、余裕が生まれてくるものだ。それでもお腹が痛くなった。気のせいだと思っていたけど、どうやらそれだけではなかったようだった。トイレを借りようにも、コンビニまでは距離があるし、パチンコ屋はまだ開いてない時間だし、どうしようかと悩む。とにかく、次のコンビニまで歩いていこうと考えるが、道中、営業している喫茶店があったので、そこに入り、まずはトイレに駆け込む。コーヒーは復路の楽しみにしておきたかたのだけど、仕方がない。先にコーヒーだ。コーヒーを飲んで、そこで書き物をする。(5)
 その後、再び、歩き始める。二つ目の難所に差し掛かるが、一度、通過していると、何も恐れることはなかった。霊園に入る。ここからが最後の難所だ。急な坂を上っていく。息が切れる。これは運動不足だから当然だ。ただ、その後に控えている階段が苦しかった。階段の後半では、ついに膝がガクガクになって、足が泳ぎ始めた。この時だけ杖に頼った。(6)
 ようやく霊園の休憩所に辿り着いた。そこでとにかく座らなければ。ここで再びタバコを吹かしながら、ぼんやりして、息を整える。しんどかったけど、少し、嬉しい気持ちもあった。足を怪我してから、最長歩行記録ではないだろうか。歩きとおせるかどうか心配だったけど、こうやって辿り着いたことが嬉しかった。最悪の場合、バスに乗るというエスケーププランも考えていた。そのために国道沿いに歩いてきたのだけど、バスに乗ることもなく歩くことができた。(7)
 僕はそこで10年ほど前のある時のことを思い出していた。当時、山登りもしていたのだけど、その日は山に行こうかどうしようかで迷っていた。山に登るには少し時間が遅かったのだ。そこで、その日はお墓参りにしたのだ。その時のことだ。今日のように歩いて墓参りをしたのだが、歩いた気分がしなくて、やっぱり無理をしてでも山に登った方が良かったなんて考えたことを覚えている。(8)
 その当時は歩いたうちに入らない距離であり、コースだったわけだ。今は、その同じコースが歩けるかどうかと心配になっている。でも、僕は一つ確信した。10年前にできていたことは、今でもできるのだ。ただ、当時と同じようにできないというだけのことだ。できないということと同じようにできないということとは、区別する必要があるのではないかと思った。当時できたことは、今でもできるのだけど、同じようにはできないし、今はそれをするためにいくつもの準備段階を持たなければならないかもしれない。でも、できないということではないのではないかと思う。(9)
 そんなことをひとしきり考えてから、うちの墓に参る。僕は、このお墓に眠っている人たちを知らない。祖母という人がいたそうだけど、僕は記憶にない。物心つくまえに、祖母が亡くなったのだ。祖父母とはどんな人たちだったのだろう。(10)
 再び休憩所に戻る。僕は自分があまりに惨めに思えてきた。祖母たちはこんな僕を見たかっただろうか、そんなことを思い始めた。もっと違った人生だってあったはずである。もっとまともな人生を送っていたかもしれない。こんな風にしか生きられないでいる僕が不甲斐なく感じられて、どうしようもない気持ちになった。(11)
 しばらく、そうした惨めな気分を味わっていた。それが不思議なことに、こんな気分、さっさとどこかへ飛んでいってしまった。すると、もっと歩きたい気持ちになった。どんどん歩けそうな気がしてきた。(12)
 そこで、霊園を一周してから帰ろうと決める。もう一度坂道を歩く。はっきり言って、体力的にはキツイのだけど、気持ちの上では何か晴々したものがあった。見渡すとたくさんのお墓が並んでいる。これだけの数の人たちがここで眠り、訪れる人たちがいるのだと思うと、僕の不甲斐なさなど、ますますどうでもよくなった。(13)
 歩いていると、よく歩けるようになったなと思う。先月、大宮の辺りを歩いたときは、こんなに歩けなかった。僕はこんなことを考えていた。結果だけしか見ないような結果至上主義ではダメだと。僕の足は完全に治ったわけではない。それでも、以前よりも歩けるようになっている。回復を感じることができない人、回復していく過程に喜びを感じられない人は、やはり、治らないのだと思う。治っていく過程に幸福があるのだとさえ、僕は思うようになった。(14)
 そこから帰宅である。今度は階段を下りないといけない。正直、キツイ。転倒にだけ気をつければ、ゆっくり降りても構わない。下りは下りで、登りよりも難しいものがある。危ないのは下りの方である。だから、ここからは気が抜けない。(15)
 それでも、何と言うのだろう、ランナーズハイのような、そういう心地よい感じがしていた。無我夢中で歩いていた。何も考えず、目に入るものを見ていく。いろんな看板やお店頭の旗なんかを見ていった。何も考えず、見えるものを見る。国道沿いなので、飲食店が多かったが、いろいろ美味しいものがあるんだなあなどと思っていた。(16)
 そんなこんなで、どうにか無事に帰宅した。14キロほど歩いた計算になる。歩けることはいいことだ。本当にそう思う。歩けるなんてことは、なんの自慢にもならないし、みんな普通にやっていることなんだけど、それでもいいなと思う。何気ないことでも、いいなと感じられるようになりたいし、その方がきっと人生豊かになるように思う。(17)
 でも、そんなものに意味を見出す人も少ないんじゃないだろうか。僕はどこかおかしいところがあるようだ。価値観がずれているかなと、我ながら思うこともある。普通の人が普通にできているように、自分はできていないなと思うことがある。しかし、他の人から見ると、そんなに違っていないと言われることもある。ギターとかピアノをやったこともあるが、僕は手の動きが普通じゃないと感じていた。他の人のように弾けてないのだ。(18)
 高校生の時、陸上部で走っていたけど、僕は自分の走り方がおかしいと信じていた。しかし、体育の先生は僕の走り方がきれいだと言った。僕は信じられない。僕の走り方は少し上に跳んでしまうのだ。それで膝を壊したりするのだ。いいフォームではないんだけど、その時の体育の先生はきれいな走り方だと言ったわけだ。(19)
 ところで、その時、僕は褒められたわけだ。でも、それで僕の何かが伸びたということはならなかった。褒めて伸ばすという迷信に疑問を僕は覚える。僕がそこを褒められる部分であるということをまったく信じていないからである。褒められる側が信じているかどうかで、褒め言葉も無意味な言葉になるものだ。(20)
 最近のところでは、一昨年の二月に、メンタルヘルスマネージメント検定というものを受けた。3級はそれほど難しいものではなかった。それでも、僕はきちんと勉強して受験したかった。それが、当時はとても忙しかったので、合間をぬってチョロチョロと勉強したに過ぎない。こんなので受験するのはいけないと思っていた。合格はしたから、それはそれでいいのだけど、僕はそれに全力を尽くしたという感じがしなかった。結果だけ見れば、合格したのだから良しということになる。もちろん、それでも構わないと言えば構わないのである。結果だけみれば、OKである。僕はそれに満足できないのだ。いっそのこと、落第してでも、一生懸命に取り組んだ方が良かったと思う。(21)
 僕はそんな価値観というか、考え方をしているので、結果だけしか見ない人とはウマが合わないかもしれない。「結果を出せ」という指令こそバカなものはないと僕は思うのだけど、そんな考えは仕事では許されないということも理解できる。だから、僕は普通に仕事のできない人間なんだと信じている。(22)
 こんなふうに自分を卑下してしまうのも、先週、立て続けに「攻撃」の矢面に立たされたからだ。一つ一つは大したダメージはなくとも、立て続けに来られると、さすがにウンザリしてくる。この「攻撃」も直接的なものもあれば、間接的なものもある。僕にはそれが攻撃的な行為であるということが感じられている。そして、それをまともに喰らっているのだ。社会の中で生きていない人間の攻撃というのは、とにかく残酷なものだ。その人の攻撃のスタイルを見れば、その人が社会生活を送っているか否かが読み取れるとさえ僕は考えている。(23)
 攻撃衝動というのは、精神分析で言えば、エスに属しているものだ。それが自我と手を組むと、その攻撃はまだ受容できるし、理解も可能である。しかし、そのエスが超自我と手を組んで、尚且つ自我が働かない場合、その攻撃は恐ろしく破壊的になる。エスの攻撃衝動に、超自我が手を貸す形になるからである。エスや超自我よりも、自我が機能していないということにその人たちの問題があるわけなのだが、自我が機能しないのであれば、いくら僕が代理自我を引き受けようと、あるいは補助自我の役目を担おうとしても、無理なのだ。エス衝動が収まるまで待つしかない。その間、僕は攻撃に晒され続ける。更に言えば、自我がきちんと働かないから、彼らは社会で生きていくことが難しいのだ。僕はそう考える。(24)
 彼らのことはここでは述べないことにしよう。僕は僕で、自我の回復を試みている。誰が何と言おうと、自分に何が起きているかを知ること、あるいは仮説を立てることができるということが大切だと僕は思う。もし、そうしたものを考えることができるなら、少なくとも、それは自我を働かせているということになるからである。彼らはそれが難しい。だから、その分、僕がその働きを代行しなければならない。それが援助的な行為であると考えている。(25)
 つまり、僕は欠損モデルに基づいて考えていることになるわけだ。葛藤モデルよりも、欠損モデルを採用しているということだ。そして、欠損部分を、一時的にであれ、代行することによって、彼らは救われるのだと僕は考えている。もちろん、この代行は一時的である。代行している僕が内在化されていけば、それが彼らの自我機能に組み入れられていくことになる。(26)
 しかしながら、ここは矛盾している部分でもある。もし、彼らの自我がきちんと機能していないなら、自我による内在化はなかなか期待できないからである。期待できないけど、僕はそこに期待していることになる。ここに矛盾があり、背理があるのだけど、今の僕にはこの背理を解消することができないでいる。(27)
 彼らは自我の力が弱いのだ。そのために自我がきちんと働かないので、エスや超自我が強くなったり、両者が結合してしまうのだ。僕は彼らの自我の代わりになる。それで彼らが一時的に安定するのは確かである。しかし、もともと、エスと超自我が自我を追い出しているので、同じことが代理自我である僕に対しても行われる。エス衝動は激しい攻撃性として、超自我は相手を断罪する裁判官として、僕に向けられてくる。それでも、僕はあくまでも彼らの自我として機能しなければならない。でも、上手くいかない。限界が来る。僕は彼らに敗北する。こうして彼らの自我も敗北を喫することになるのだ。今までの繰り返しが彼らに起きるだけだった。(28)
 彼らは僕を貶めようと、僕は彼らと同じではない。いや、僕もかつては彼らと同じようなことをしていた。今、僕はそれをしなくなっている。攻撃衝動は僕の中にもある。でも、それを超自我と結合させてはいけないのだ。自我が両者を中和するように目指すのだ。意識的にそれをしていかなければならないのだ。(29)
 もし、激しい敵意を僕が感じるとする。それはエスからの信号である。超自我は、そのエスを抑制するように働く。自我によって、この敵意を考えることができ、抑制することの意味を探求することができるのだ。自我がそれをするのであって、僕は意識的にそれをしていくのだ。エスの自由にさせてはいけないし、エスの攻撃衝動に超自我が従うようになってもいけないのだ。自我を常に働かせないといけないのだ。(30)
 もし、これを読んでくれている人がいるとすれば、僕が何を言っているのかさっぱり分からないだろうと思う。それは仕方がない。僕もあまり彼らとのことに細かく立ち入って記述するつもりはないからである。(31)
 どうも最後は理屈っぽい話になってしまった。僕の考えを述べているとは言え、それは僕が経験したことではないのだ。経験したことから考えたことを述べているに過ぎない。自分の経験したことを記述していくという、この内省録の趣旨に幾分反した行為をしてしまっているように思う。これを始めて、僕はまだ具体的な僕自身の体験に迫っていないという気がしている。そういう思いがあるので、今回は今日僕が体験したことから始めてみたのであるが、あまり上手くはいかなかった。何事も思うようにはいかないものだ。(32)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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