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2017年4月 1日 土曜日

4月1日:内省録第2回:解説編

4月1日:内省録―第2回:解説

 (1)まず、何らかの変化が体験されていることが述べられる。重くのしかかっているものが、それ自体は変わらないとしても、どこか離れて行ったような感じを体験している。

 (2)それに気づいた時のことが語られる。呑みに行った時に、その最中にふと感じたことである。「矢も楯もたまらなくなって、呑みに行った」という感情の方は取り上げられていない。本当は、矢も楯もたまらなくなるほどの感情体験を綴る方がよかったのだろうけど、そこは無視されている。
 (3)この変化はお酒のせいではないということを述べる。それはそんなに重要なことではないはずである。前述の感情体験に僕は目をつぶろうとしているようだ。

 (4)僕はここで一つの防衛を働かせている。知性化を試みている。でも、それはうまくいかない。つまり、「矢も楯もたまらなくなって」呑みに行った時に変化が起きたけど、それはお酒のせいではないということであれば、否応なしに「矢も楯もたまらなくなった」感情を生み出した体験に目を向けてしまうことになるからだ。いずれにしても、僕はそこには触れないようにしている。

 (5)ここで僕ははっきりと話題を転じている。この内省録を始めた動機の一つを語るのであるが、以下の部分も含めて、これは前回に述べようとしていたことだった。前回はそれが頭に浮かんでこなかったのだ。
 (6)玉子焼きの例で表していることは、自他の融合である。ある時、目玉焼きを作っているところを見ていて、この喩えを思いついた。僕は自他をもう一度区別したくなっている。融合的になっている自我を輪郭づけし直したいと願っている。

 (7)クライアント、特に病理が重い(あまり使いたくない表現だけど)ほど、パラタクシス的な歪みを持ち込み、投げかけてくる。僕は僕でないものを一方的に付与され、拒むことが許されないという状況に追い込まれる。僕はそれを同化しなければならなくなる。それは僕でないものを僕のものとして呑みこまなければならない体験である。元々はクライアント側にあったものだとしても、クライアントはそれは僕の方にあるといって押し付けてくる。僕の反論は受け付けられないか、クライアントの論証の資料として活用されてしまう。
 (8)僕が何を同化させられるかということがここで述べられる。クライアントの「悪」である。僕はそこで「悪」と同一視され、拘束される。追い出したいのは、もしくは区別をつけたいのは、この「悪」である。

 (9)ここで僕の皮膚科での体験が思い出される。長時間待たされて、患部を一瞥されて、薬を処方されただけという体験だった。本当に言いたいのは、彼らには僕のような体験をすることはないだろう、それが羨ましいということであったようだ。
 (10)皮膚科の医師は診断名も言わなかったし、何の説明もしなかった。彼らはそれでも許されるのだと思った。ラクな仕事をしているというのは、失礼な言葉であったかもしれないけど、正直な感想だった。それをしても彼らは恨まれることなんてないのだ。それがやはり羨ましいと感じていたのだろうと思う。僕は、彼らが「ラクな仕事をしている」などと批判するのではなく、「彼らが羨ましい」とはっきり言う方が良かったと今では思っている。その方が自分により正直である。その種の批判は常に自己欺瞞から生まれるものだとも思う。
 (11)ここで僕の立場に置き換えて述べられる。「専門家の言うことなんだから黙って従えばいいんだ」というのは、僕の本音である。いくら説明なんかしたところで、それはクライアントの不信感に基づいているのだから、一緒なのである。それでも求められれば説明をするのは、クライアントの要望にある程度応じようと思うからである。はっきり言って、無意味な作業に従事しているのである。

 (12)僕はここで自己弁護を試みている。僕が自分の正当性を主張したくなっているのは、彼らから受け取ったものを排出する試みである。
 (13)仕事をして恨まれることほど馬鹿げたことはないと思う。これは日頃からそう思う。僕はここでクライアントの方に視点を移してしまいそうになっている。先の自己弁護から生まれているのだと思う。もし、そのことに気づかなかったら、僕はこの後、クライアント攻撃に労力を費やしていただろうと思う。
 (14)恨むよりも他にしなければならないことがあるだろうと僕はいいたいのである。それは同時に僕自身に言い聞かせている言葉である。そして、僕は彼らと同じことはしないということで、僕は彼らと自分を区別しようとしている。

 (15)ここで話題が転じる。恨みたくて誰も恨むことはできないということから、生きていくのは苦しいという連想が生まれたのだろう。誰のせいでもない苦しみも人は体験するからであるということを述べている。
 (16)僕は経営のことを話題に出したことで、昨夜の光景を思い浮かべることになった。老舗でも安泰ではないのだ。

 (17)自分を持っていない人は、メディアを自我の代理とするということなのだけど、どこかで僕はそうした人たちや社会の傾向を非難したくなっているようだった。そして、この非難はクライアント非難でもある。つまり、その時々の流行や注目であっちへ行ったりこっちへ来たりというような人を非難したくなっているが、それは、その時々の感情で荒れ狂ったり沈んだりしてしまうクライアントたちを非難したくなっているということである。

 (18)それから、僕にも過去にはそういう依頼を受けたことがあるということを思い出される。これはテレビ取材からの連想である。上述のように、この部分にはクライアントのことが暗に秘められているのだが、僕はクライアントの方には目を向けないようにしている。
 (19)ここは僕自身のことがよく出ている部分だ。注目を浴びた後の置いてきぼりの感じに耐えられないと思う。取材された店が一時的に繁盛して、その後はさーっと人が引いていく時に、僕はそうした寂しさを感じてしまうのかもしれない。そして、破壊して去っていくクライアントとの間で経験する寂しさとがここで重なっていたように思う。

 (20)緊張ということを引き継いで話が発展する。何かを言う時には緊張が高まるのだ。それが僕の説明べたと関係しているのだろう。
 (21)緊張してしまうということを、異常事態と捉えるか、それともそういうものだとして受け入れるかの、ちょっとした葛藤がここで語られる。僕は受け入れる方を選ぶ。人間に生じることで「異常」なことは何もないのだ、それを「異常」と認知・評価してしまうのだと僕は日頃から思うからである。尚、僕はそれを受け入れると宣言することで、彼らとは異なるということを暗に仄めかしている。彼らは自分に起きることを「異常」なことだと体験し、それをもたらした人間、もしくはそれを除去してくれない人間をひどく攻撃する。彼らはそれをしても、僕はそれをしないと宣言することで、彼らとの区別をつけようと試みている。

 (22)ここで前回のテーマが繰り返される。僕は僕の原因である。すべては僕にかかっているということが繰り返される。僕はこれを言うことで、自分の原因は他の誰かにあると考える人たちや、待っていれば相手が育ててくれると信じている人たちと自分とを区別しようとしている。つまり、彼らはそうだが、僕はそうではないということを明記することによって、僕は僕を明確にしようとしている。

 (23)僕の考え方は厳しいものとして映ると思う。僕は自分では厳しい人間である、もしくは厳しい一面をも有した人間だと信じている。他の人はあまり僕からそうした一面を見ることはないだろう。
 (24)その厳しさを発揮しなければならない場面があるということが綴られる。そして、それが辛いということも僕には感じられている。ある意味では、その時の僕は分裂しているのである。自分を分裂させてまでも、相手に厳しさを発揮しなければならないということである。
 (25)厳しいことも言わなければならないけど、それも辛いという葛藤が語られる。僕は、自分で言うのもおかしいけど、これは正直な気持ちとして持っている。
 (26)マザー・テレサさんのことがふと思い出された。引き合いに出すなんて卑怯だと思われそうだ。そういうつもりではないのである。ただ、援助職に就くような人は、時に厳しさを発揮しなければならないということを述べたいだけである。それは僕自身の自己弁護であるかもしれない。

 (27)厳しいことがそんなに悪いことなのかという疑問が浮かぶ。しかし、後半はクライアント側の視点が混入している。つまり、僕はそれは「悪」ではないと信じているのだから、そう表明してもいいのであるが、クライアントはそれは「悪」だと見做し、その視点が混入しているので、葛藤的な表現になっている。
 (28)僕はここで僕を恨む人たちと心の中で対決しているのだ。僕の中に混入してきた彼らの視点と、僕は対決しているのだ。しかし、この対決は決着を見ないまま、次の連想に移行してしまっているようだ。

 (29)僕は自分が厳しい人間であると思っている。そこで、過去に出会った「厳しい臨床家」が連想されてF先生が思い出されたのだ。ここで、僕はなりたくなかった人間になってしまっている自分に気づいてしまう。そう、僕は同時に、僕はF先生とは違うのだということも主張したくなっているのだ。
 (30)僕は個人攻撃はしないようにしようと考えている。F先生の悪口に発展しないように自分を納得させているのである。しかし、これは自分に関するイヤな事実から目を逸らそうとしているに過ぎない。僕は、嫌悪していた人と同じ種類のことをしている、同類だという観念から逃げようとしている。F先生にも正しい部分があると認めることで、自分にも正しい部分があるということの証明にしようとしている。

 (31)話が飛躍した上に、いささか統一を欠いているという印象を受ける。愛情には厳しさが伴うというテーマに戻ってしまっている。僕は僕の中で生じた観念から逃げようとしているので、いささか支離滅裂になってしまっている。
 (32)これは同時に僕の弁護である。もし、僕が本当に厳し過ぎるのであれば、僕はそれを知らないのだから、再学習の機会が与えられるべきで、罪責を負わされる覚えはないということを言おうとしているのだ。

 (33)ここで言っているのは、攻撃する側と攻撃される側の融合である。今回の主要テーマがここでも現れていることになる。
 (34)ここで話がクライアントたちとの間で起きたことに戻る。主要テーマが復活したために、話が本線に戻ったという感じである。

 (35)攻撃する人は、相手の報復に脅かされる。自我が耐えられなければ、それは迫害妄想などに発展することもある。彼らは僕を攻撃する。それは簡単なことである。しかし、彼らの中ではそれだけで終わらないこともある。そして、それだけで終わらないことの全責任を僕にぶつけてくる。

 (36)ここで矛盾した結論に至ったかのように思われるかもしれない。僕は吹っ切れた感じがしたと体験している。でも、呑みこんだ方がいいという結論に至ったかのように見えるかもしれない。自我化などと曖昧な言葉を使用したので誤解を招くかと思うが、これは呑みこんでも自我が処理していくことという意味で使用したのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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