blog2

2017年3月27日 月曜日

3月27日:内省録―第1回

3月27日(月):内省録―第1回:内省篇

 人生に行き詰ると、僕は自分自身を語り直したくなる。今までもこれをしてきたし、過去にはそれをサイトに挙げたりもした。基本的には同じことを繰り返すことになるだろう。大体1時間程度、思いつくままに綴る。内容が散漫になろうとお構いなしだ。その中で僕の心がどう動いたかを見る方が大切なのだ。それだけではない。僕の心がきちんと動くかどうかも確認したいのだ。僕は自分自身を語り直す。本当はカウンセリングを受けるのがいいのだけど、僕にはそういうカウンセラーがもういない。師匠のI先生にお願いしてもいいのだけど、時間と労力とお金の問題がある。僕は自分だけでこれをやっていかなければならない。(1)
 もし、僕が自分を語り直すことができるとすれば、僕には語られる自己があるということだ。これが重要なことだ。自己を持たない人は自分を語ることができない。と言うのは、語ることができるものが自分だからである。(2)
 もし、僕が生きた自己を有しているなら、僕は僕自身について語ることができるはずである。他の誰かではなく、僕自身のことが語られるはずである。そうして語られる僕は、そのまま僕自身である。僕はそう考える。そして、語り直せば語り直すほど、僕は自分を確かなものにしていく。(3)
 僕は自由な人間でありたい。自由でいたい。自由でいたいから、僕は自分に関するあらゆる事柄の原因が自分にあるということを認める。もし、僕がより良く生きていけないなら、その原因は僕自身にある。もし僕が病気になったり、あるいは、病気を治せなかったりしたら、その原因は僕にある。まことに、僕は僕の原因なのだ。他の誰かのせいでこうなったなんてことは言えないのだ。それは僕が自由を放棄することを意味するからだ。僕が僕自身に関する事柄の原因を他者に求める時、僕はその他者に自己を拘束させることになる。だから僕は自由を失う。(4)
 語り直すのも僕自身だ。この語り直しが上手くいくかどうか、その原因は僕自身にある。他の誰かのせいではない。もっとも、これに慣れるまでは、いくつもの不手際をしでかさないといけないだろう。最初から順調に行くとは思わない。何度も試行錯誤して、回り道して、ようやく、この作業に馴染んでいくだろう。僕は僕の限界を受け入れる。今の僕にできることの限界を受け入れる。(5)
 クライアントたちを見ていて思うのは、彼らはあまりにも当たり前のことを受け入れないということだ。人間にとってそれが自然であることなのに、彼らはそれを異常な事態だと考える。彼らはそこを間違う。そこを間違うが故に、彼らは自分の自然を受け入れられず、同じところに留まり続ける。勿体ない人生だと僕は思う。(6)
 しかし、僕はまだ何も自分自身を語り直していない。僕の中にある観念だけを綴っている。これは告白でもなんでもない。説教である。論文である。僕はまだ自分に何も触れていない。もしくは間接的にしか触れていない。(7)
 僕は生きている。僕が生きるということは、僕自身を育てていくことなのだと思う。人は自分を育てていかなくてはならないのだ。誰かが代わりにやってくれるなんてことはないのだ。他人はその手伝いができる程度だ。僕は僕自身を育てなければならない。そして、これは終わりのない作業なのだ。僕たちは決して完成されることなんてないのだ。ただ、常に上を求めるしかないのだ。(8)
 僕は悲観的すぎるだろうか、それとも観念論者であろうか。僕自身はそうは思っていないのだけど、見る人によってはそんなふうに見えるかもしれない。本当は具体的なことを好む人間だと思う。人は対象を分析することが好きな人と、自分の体験を語ることを好む人とがあると思う。どちらかというと、僕は後者なのだ。サイトを書くよりも、ブログを書く方が好きなのもそのためだ。僕は人や事物を分析することをあまり好まない。ただ、そうしなければならないからそうするだけであって、本当は自分の体験したことを語る方が好きなのだ。(9)
 今日、本当は病院に行く予定をしていた。午前中はそれで空けていたのだけど、体の具合が芳しくなく、普通に休息した。午後から職場に出て、面接と事務仕事をこなした。どうしても具合の悪さは感じられるし、その不調をどうにもできないでいた。今、これを書いていても、気分は優れないでいる。こんな状態で自分の語り直しをやっていこうというのだから、あまりいい試みではないかもしれない。でも、一方では、これをしていかないといけないという気持ちもある。僕は自分の生に行き詰っていることを感じているからであり、これは僕が取り組むことを要請されているのだ。(10)
 僕は生きなければならない。生まれてきた以上、最後まで生きなければならない。それもただ生きているだけでは意味がないのだ。しっかり生きなければならない、よりよく生きなければならない。これは僕だけでなく、すべての人に課せられているテーマだと思う。僕はそれに取り組む。(11)
 僕は今これをいつもの喫茶店で書いている。僕の前には団体さんが座っている。がやがやと騒がしい。彼らを非難するつもりはないけど、僕はそれが真実の生き方であるとは思わない。ただ歓楽があるだけというのは、幸福でもなんでもない。その場限りの何かでしかない。(12)
 先週の金曜日だった。最後の時間が空いたので、早めに職場を出て、呑みに行った。騒々しいおばさんと、やはり口数の多いおじさんがいた。彼らを見て、僕は自分がつくづくイヤになった。酒を飲んで、騒音をまき散らすだけの人間にはなりたくないけど、僕も同類なのだ。何かを語っているわけではない。ただ、言葉を発しているだけで、沈黙になることを過度に恐れ、話すことがなくなれば他人に絡んで、そうして騒音をまき散らしているだけなのだ。そう、彼らは黙っていられないのだ。疾しいものが心の中にあるためだと思う。自分をごまかして、それを見てしまわないように常に他のことに目を奪われなければならなくて、尚且つ、自分自身を語らないように喋らなければならない人たちだ。もちろん、彼らが悪いと言うつもりはない。それは彼らの生き方なのだ。僕はそこから抜け出たいと思うだけである。(13)
 基本的に、僕はお酒を飲むときは独りだし、無口に飲む方だ。お喋りをしないとストレスが溜まるでしょうとママさんからも言われる。おそらく一般の人はそう考えるのだろう。本当はお喋り自体はストレス解消にはならないのだ。その前に、一人の人間がストレスを発散されることほど、傍迷惑な行為はないのである。僕はそれを知っているので、少なくとも、人と一緒の時や公共の場にいる時に、僕は自分のストレスを解消しようなどとは望まない。ストレスは発散されるものではなく、解消されるべきものでもない。それは抱えられるものであり、それを抱えることのできる人間になること、それを僕は目指したいとさえ思う。(14)
 ここを間違える人も多いのだけど、生理的欲求と社会的欲求とは性質が異なるものである。多くの人がそれを同じ種類のものだと考える。生理的欲求、例えば、食欲なんかは、食事をするとそれで納まる。満たされるとその時点で終わるのだ。社会的欲求の方はそうした性質を有していないのだ。満たされるとさらに要求水準が高まるものなのだ。例えば、承認欲求というものがある。誰かに自分のことが認めてもらえる。それで満足することもあるだろうし、それによって一時的に納まることもあるだろう。しかし、そうした欲求はさらにより大きい承認欲求に発展していくものである。あることで承認してもらえたとする。やがて、そのことで承認されても、その人はもはや何の感動もないだろう。そして、それ以上の何かで承認されることを欲していることだろう。食欲の場合、空腹が満たされれば、一応、それでOKだ。より美味しいものを食べようと、貧相なものを食べようと、空腹を満たすという観点に立てばどちらでもよいことになる。それ以上に発展するということがあまりないのである。(15)
 社会的欲求には愛されたいというものもある。これもやがては普通の愛され方では満足しなくなるかもしれない。いや、実際、そういう人もある。富を得た人がさらに富を求めるように、こういう欲求はエスカレートしていくものだ。どこかで終わりを見つけなければならない領域であるかもしれない。僕は愛されたいとも認められたいとも、今ではほとんど思わなくなっている。確かに過去においてはそういう欲求を強く有していた。僕は僕なりに、これまでの人生で十分愛されたと思うし、十分に認めてもらえたとも思う。ここをしっかり見ないと、僕は今でもそれを求めて止まなかっただろうと思うし、さらに大きな愛と承認を求めるようになっていたかもしれない。(16)
 分かりやすい例で言えば、富ということで考えてみよう。富を得ると、さらに大きな富を求めたくなる。それは富に価値を置いているからなのだ。しかし、それだけの富を得た自分に価値を置くようになると、富自体はもはや魅力ではなくなる。僕が僕自身に価値を見出していけばいくほど、社会的欲求は抑えられていくだろう。そうした欲求を持つこと自体は悪いことでもなんもないのであるが、それが大きくなっていくことが問題なのである。(17)
 僕がクリニックにいた頃、僕によくしてくれたN先生がいた。そのN先生と呑みに行った時だった。N先生は店の人に僕を紹介してくれた。その時、「うちの跡継ぎにしようと思っている」と言ってくれたのを今でも覚えている。N先生がどういうつもりで言ったかは分からない。それでも、僕のことをそこまでかってくれたのは後にも先にもN先生だけだと思う。今後、そこまで僕に期待をかけてくれる人なんて現れないだろう。僕はそこで十分満足するべきなのだ。クリニックの後を継がせたいとN先生に思ってもらえる自分に、僕は自分の価値を見出さなければならないのだ。この欲求をさらに他の人でも満たそうとしてはいけないのだ。あの時の快感が忘れられないからといって、さらにこれを満たそうとしてはいけないのだ。そうすると、そこに拘泥してしまって、僕はそこから一歩も動けなくなってしまう。愛も承認も一度で十分なのだ。(18)
 N先生はそこまで僕を高く買ってくれた。結果的に、僕はそのクリニックを去ることになったし、N先生ともその後会うことはなくなった。それでも、僕の中にその経験は軌跡として残っている。今、僕がこうして開業することができているのも、この時の経験が大きいと思う。もし、僕が今でもそういう期待を求めているとすれば、N先生から他の先生へと渡り歩いていたことだろう。どの先生からも過大な期待を求めるようになっていただろうと思う。期待や承認に価値を置いてしまうと、そうなっていただろうと思う。高く買ってもらえた僕自身に僕は価値を見出さなければならないのだ。(19)
 しかし、価値というのも実に曖昧な言葉である。自分の価値と言っても、何となく僕はそういう言葉を使っていたけれど、本当はそれをどう定義していいのか分からない。我ながらいい加減なものだ。僕は価値ということをどのように定義していいか分からないし、自分にはとてもそういう定義が思いつかないとさえ考えている。(20)
 それでも僕は価値という言葉を使う。明確に定義づけできないとしても、僕は自分の価値というものに価値を置く。人は自分が価値を置いているものに努力するものである。それが好きだから続けられるのではないのだ。それが好きであるというのは付加的なものでしかない。それに価値を置いているから継続できるのだ。それをする動機というのは、最初のきっかけに過ぎない。(21)
 僕がカウンセリングを続けているのは、それが好きであるだけではない。それに価値を見出しているからなのだ。カウンセリングを始めた動機はあるとしても、動機はあくまでも最初の一歩に関係するものである。それに価値を置いているから、僕はそれを続けることができるのだ。(22)
 何事もそうである。パチンコが止められないという人がいる。僕もそういう人と何人も会ったことがある。そういう人は、なぜパチンコをするかという動機に拘る。言い換えると、なぜそれが止められないのかという部分に拘るわけである。しかし、その人がパチンコを止められないのは、その人がパチンコになんらかの価値を置いているからなのだ。どんな価値を付与してしまっているかを度外視して、最初の動機に拘るので、彼らはなかなか進展しないのだ。(23)
 さらに言えば、価値を金銭で換算してしまう人も多い。年収や納税額でその人の価値が測られることもある。たくさん稼ぐ人が、必ずしも、優秀な人間とは限らないのだけど、人はしばしばその人の所有している富とその人自身とを同一視してしまう。僕はそういうことはしたくないと思う。その人の価値は金額に換算できないものである。別の言い方をすれば、ある品物の価値はその金額とは関係がないということである。高価な商品は、それに価値があるのではなく、それにかかる経費に拠るものである。価値ではないのだ。価値は金額とは別に付与されることもある。希少価値があるものは高価になるが、それでもその金額は価値そのものではないのである。もともとの価格に、人工的に付与された金額が合算されているだけのことである。(24)
 価値とは換算することも交換することもできない何かである。僕が僕の価値を見出す時、それは僕でしかない何かを見出している時である。N先生が僕を高く買ってくれた。跡継ぎにしようと考えていると言ってくれた。それは僕だけである。N先生の他のお弟子さんではない。そこに交換不可能性を見出すから、僕はその体験をした僕に価値を見出すのである。僕はカウンセリングに価値を見出している。カウンセリングをしている僕に価値を見出す。そこには交換不可能な何かがあるからだ。お金に換算できない何かがあるからなのだ。僕のカウンセリングは僕だけにしかできない。いくら僕より優れたカウンセラーさんがいようと、そこは変わらない。(25)
 僕が経験したこと、他でもないこの僕が経験したことの故に、僕の経験は僕にとって価値があるのだ。そして、その経験をした僕自身に価値を覚えるのだ。それをもたらした対象に価値を見出したら、対象に価値を置くことになり、僕はその対象を死ぬまで追いかけ続けるだろう。そうすると、それはエンドレスの追跡になるだけなのだ。(26)
 誰かに認められること、大勢の人に認められることは、僕にはもう興味がない。僕のサイトにどれだけフォロワーがいるのか知らないけど、そんなことに拘らなくなっている。一番最初のHPでは、「お気に入り登録数」っていうものをすごく意識していた。駆け出しだったから、どうしてもそうなってしまうのだけど、その登録数で一喜一憂することも度々あった。独立して、独りで社会に飛び出したので、自分がどれだけ受け入れられるかということに並々でない関心が向かったのだ。当時としては、それも仕方がなかったと思う。今や、僕のサイトがどれだけ閲覧されているかなんてことにほとんど注意しない。データを確認するのは、僕のHPが他の人のところにちゃんと届いているかどうかを見るためだけである。もし、閲覧者がゼロであれば、何かサイトに不具合が生じたということであり、それは早期に発見して、早急に対処しなければならないことである。今の所、そういうアクシデントはないが、もし、そういうことが生じた場合のために、データを確認しているだけなのだ。はっきり言って、直帰率も復帰率も、滞在時間なども含めて、大半のデータに興味がない。見る人は見るし、通り過ぎる人は通り過ぎる。僕のページが開くか開かないかだけが問題なのだ。(27)
 今、カウンセラーを探している人が多いって、先日もIT業者から伺ったけど、僕には関係がない。彼らは探している人が多いから、うまくマッチングさせましょうと提案するわけだけど、どうでもいい。カウンセラーを探している人は、探しているだけで終わる人も多いだろうと思うからだ。はっきり言えば、カウンセラーを探しているのではなくて、何か他のものを探しているのだと僕は思う。そういう人が多いということなのだと僕は思う。本当にカウンセラーを探している人は、カウンセラー探しに時間をかけないものである。僕は自分の経験からそう言える。本当に必要としている人は、適度に探す行為はあるものの、どこかで決断するものである。つまり、行動に移すものである。サイトからサイトへ、ネットサーフィンばかりして探している人に、僕は期待しない。カウンセラーと会うことではなく、その探索行為自体がその人の目的になっていると思うからだ。そうして探してばかりいる人たちに、僕は迎合するつもりなんてないのだ。彼らが捜しているから、彼らに提供しましょうなんていう気持ちがさらさらないのである。(28)
 探す人は一生探し続ければよい。僕は一つ確信していることがある。彼らは少しでもいいカウンセラーを探しているつもりでいるかもしれないけど、本当は関係ないのである。治る人と治らない人とがいるだけである。治らない人はどのカウンセラーにかかっても治らないのである。他のカウンセラーで上手く行かなかった人は、僕がやっても同じである。そうして治らない人はカウンセラーを転々としているけど、自分を治してくれるカウンセラーがいないのではなく、自分が治らない人間であることを自覚していないのである。その人たちに必要なのは、治ることではなく、治る人間になっていくことなのだ。カウンセラーの優劣なんて、そこにはほとんどなんの関係もない。(29)
 若いころ、僕もそこをかなり誤解していた。治る病気と治らない病気、あるいは克服できる問題とできない問題の区別があるのだと信じていた。経験を積むうちに、その区別そのものが間違っているということに気づいた。もし、僕が治らないのであれば、その原因は僕にあるのだ。僕がそれを克服できないとすれば、その原因もやはり僕にあるのだ。カウンセラーにあるのではない。すでに述べたように、僕は僕の原因なのだ。因果は、もしそれがあるとすれば、すべて僕の中にあるのだ。原因も結果も僕の中にあるのだ。もし、僕が僕自身の人生を良いものにしていけないとすれば、その原因も責任も僕自身にあるのだ。僕は少しでも、そういう自分を改善していきたいと思うし、改善できる人間になっていきたいと思う。(30)
(時間が来て終了)

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

カテゴリ一覧

カレンダー

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

月別アーカイブ