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2017年2月15日 水曜日

12年目コラム(68):臨床心理の日米欧(14)~比較

12年目コラム(68):臨床心理の日米欧(14)~比較

 僕の個人的な印象だけど、日本人の事例なんかを読んでいると自分が比較されて傷ついたといった訴えをするクライアントを見かける。この訴えは外国ではあまり見られないように思う。日本にはまだ「和」の精神が生きているのか、それとも外国ではこういう区別がはっきりされているのか(外国では大人と子供ははっきり区別されていたりする)、その理由は何とも言えない。
 欧米では、比較という観点からは論じられないけど、妬みとか羨望という概念でこれが取り上げられることも多いように思う。比較という行為ではなく、その人の抱えている感情が取り上げられているのであって、「比較するから不幸になる」といった論はあまりお見かけしないように思う。

 日本では、「人と比較するから不幸になる」なんてことを平気で口にする精神科医たちもいるのだが、本当に低レベルの話である。
 これは本当は次元が異なる話である。ある人が幸福であるか不幸であるかは、その人の「状態」の次元である。比較する、しないは「行為」の次元である。どうも次元の異なる二つを結びつけたという感じがしないでもない。(注:次元の違う二つはどのようにも結合させることができるので、要注意である)
それはともかくとして、僕の考えでは、人は他者と比較するから不幸になるのではないのだ。その人が不幸だから比較するのだ。不幸な人が自分と他者とを比較したがるのだ。その人たちはそうせずにはいられないのだ。もう少し丁寧に言えば、「人と比較するから不幸になる」のではなくて、「不幸な人が人と比較するからもっと不幸になる」ということなのだと僕は思う。
幸福な人は自分と他者を比較するなんて概念を持たない。僕は自分の経験からそう信じている。競技なんかでもそうだ、比較するのは敗者の方である。敗者が勝者と比較して、自分の何が劣っていたのかなどと分析したりするものである。勝者はより上の勝者と比較するものであり、敗者と比較するなんて稀なことではないかと思う。
よく「上から目線でものを言われた」と体験する人もあるが、これも「比較」である。しかし、これは単に相手が尊大だというだけのことなのである。僕の前で相手が尊大な態度を採っているというだけのことであって、本来、僕には関係のないことなのだ。それは相手に属する事柄なのだ。そこを「上から目線で物を言われた」という観念が入り込むことによって、それが僕に関係のある事柄になるだけなのだ。もし、僕が十分に充足していれば、相手が尊大であろうがなかろうがどうでもいいことであり、従って、相手から「上から目線で物を言われた」という観念なんて生じないものである。

 しかし、よく注意しなければいけない。ここで言っている「比較」というのは、要するに「優劣をつける」という意味である。言い換えるなら、それは「評価」ということである。比較することと評価することとはまったく異なる活動である。
 先述のように、こうした評価は劣位にある者によってなされるのが常ではないだろうか。さらに加えて、こうした評価は公平さを欠く。スポーツや競技のように条件を同じにして評価されるわけではないからである。
 例えば、歳の差が3歳の兄弟がいるとする。兄は弟を見て、自分よりも親から大切にされていると評価する。しかし、これは公平な評価ではない。兄が自分よりも弟の方が親たちに大切にされていると言うためには、3年前の自分の状況と今の弟の状況とが比較されなくてはならない。もちろん、この時点ですでに条件が同じでない場合もある。現在の弟は親たちに十分に構ってもらえている。3年前、つまり今の弟と同じ年齢の時の兄は、親にそれほど構ってもらえていなかったかもしれないが、まだ生きていた祖父母が構ってくれていたということだってある。
 比較するにしても条件が同じでないし、何か一部分だけを取り上げて、あの人の方が私よりも恵まれているなんてことも言えないわけである。ここには比較する人の心的投影が働いているように思う。

 まとまりのないまま綴ってきたので、まとまりがつかなくなってしまったが、僕が今回言いたいことは、人間は時に「比較」を必要とするということなのだった。随分、話しが枝道に逸れてしまった。
 僕は身長が170センチである。これだけでは僕は背が高いのか低いのか分からない。僕がどれくらいの背丈であるかを知るには、比較しなければならないのである。そうすると、170センチは日本人の成人男性では平均的な身長であることが分かる。これが分かることによって、僕は平均並みの所にあるのだなということが分かる。
 どんな場合であれ、自分がどの辺りにいるか、自分に何ができて何ができないのか、自分の輪郭を明確にしていくためにも、比較という作業が求められるものだと思う。
 この比較は、「評価」ではないのだ。比較して、「良い・悪い」「優っている・劣っている」「恵まれている・恵まれていない」などといった価値判断を付加するから、その比較は「評価」になるわけである。
 しかし、この価値判断がそのまま個人を不幸にするとも限らないのである。「自分は劣っている、なにくそっ!」と頑張る人にとっては、この評価は不幸をもたらすものではないのである。
 人が「不幸」になるのは、もっと多くの要因が関係しているのであって、決して「比較する」という単一の行為に帰せられないものなのである。
 何よりも、一番不幸なことは、不幸にならないために自分と他人を比較しないという人が、そうすることによって自分が曖昧なままであったり、他者との間に壁を築いてしまうことだと思う。案外、そういう人がこの言説に共鳴しているのかもしれない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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