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2017年1月 9日 月曜日

1月9日:成人の日に思う

1月9日(月):成人の日に思う

 3連休だ。成人の日だ。
 今年も成人式が荒れたとか、そんなニュースが流れるのだろうな。実にくだらない。
 僕が20歳の時、僕の住む京都市から成人式の案内のハガキが来たのを覚えている。当然、僕はそんなの無視だ。祭りごとが嫌いだというのもあるし、成人式なんて無駄だと思うからである。それは今でも変わらず、そう信じている。
 僕の記憶違いでなければ、成人の日というのは戦後に制定されたのではなかったかな。敗戦後、意気喪失した国民に希望を与えようという意味もあったと、聞いたことがある。若い人を社会に迎えることで、人々はそこに希望を持とうとしたのだと思う。
 僕が20歳の頃、当然、もう戦後ではなかった。成人式がかつて有していた意味なんて、すでになくなっていた。これが昭和20年代、せめて30年代であれば、その時期に20歳を迎えていたら、僕はこの儀式に参加していたかもしれない。その意味が生きている間は、僕はそれに参加して、人々の希望の一人になることを選んでいたかもしれない。
 もはや、そんな意味はない。成人式なんて、ただの形式にしか僕には見えない。新成人たちが、もちろんこれは一部の人たちだけの話であるが、バカ騒ぎするだけの式に成り下がってしまった。僕には、そこに堕落しか見えないのだ。

 そもそも「成人」って何だ。僕は「成人」というものが分からない。「大人」というのは理解できる概念だ。それは「子供」という概念と対をなすからである。どのような定義を下そうとも、対概念によって、「大人」という概念は輪郭づけられる。「成人」にはそれがないのである。
 おそらく、一般的には「未成年」「未成人」が「成人」の対概念とされているのだろう。しかし、「未成年」というのは、年齢がそれに達していないということを指すだけの言葉ではないだろうか。「未成年」に対して、「既成年」と言わず、「成人」と表記するのは、「成人」に年齢が達したということ以上の意味や定義を含んでいるからではないのだろうか。
 僕はそれにどのような定義がされているのかを知らない。年齢が達すれば「成人」とみなされるとしても、本当に僕は「成人」の定義を満たしているような人間であるだろうか。
 僕は不思議に思う。どうしてみんな当たり前のように自分を「成人」だと信じているのだろう。それって、そんなに自明なことではないのではないだろうか。
「成人」を、その字面通り「人に成る」というように解釈してみよう。本当に僕たちは「人に成った」と言えるだろうか。生物学的には、僕たちは誰もヒト科である。ヒトから人へ成っていくことが教育の目的だと読んだことがあるけど、本当に「人に成った」と言えるだろうか。僕はどこでそれを証明できるだろうか。
 僕はそれを証明することもできなければ、信じることもできない。なぜなら、僕の中にはヒトに属する領域があるからである。僕の中には、動物の部分がある。どの人にもそれがある。本当に「人に成った」と言えるだろうか。
 しかし、この話はもうここまでにしておこう。このまま続けていくと、「人間とは何か」という、人間の定義にまで至りそうに思うからだ。そして、「人間とは何か」という人間の定義づけは、これに成功した者は誰もいないのだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

 



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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