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2016年12月10日 土曜日

12年目コラム(60):臨床心理の日米欧(6)~落ちこぼれ分野

12年目コラム(60):臨床心理の日米欧(6)~落ちこぼれ分野

 学問としての心理学は19世紀末に誕生した。ヴントによって心理学研究室が開設されたのがその誕生の年とされている。
 学問としての心理学は、やがて科学的手法、つまり実験による実証を重んじるようになる。それでも、初期の心理学実験は素朴で単純なものも多かった。ヴントの実験でもそうだったが、エビングハウスの忘却実験など、実験者自らが被験者になって、その記録でもって仮説の証明としたのである。そういうことが許容されていた時代だった。
 その後、心理学はより科学的で実証的あることを目指すようになり、実験手続が複雑化し、統計的手法を採用するようになる。このような背景があるので、日本では心理学といえば文系の科目だけど、欧米では理数系の科目となるのである。実験と統計に通じていなければ心理学の研究はできないのである。

 大学には一般教養科目として心理学の授業がある。興味を抱いて受講された方々もおられると思う。その中には心理学にひどく落胆した人もあるのではないかと思う。もっと人間の心に関することが学べると思っていたのに、実験や統計のことばかり聞かされたという体験をした人もあるだろう。
 18歳の頃、心理学をかじり始めた僕は、意外にも、そういう実験や統計が面白いと感じた。
僕も大学の一般教養で心理学を受講した。割と厳しい先生だった。無意識なんてない、記憶なんて研究して何になるのだと豪語するような、バリバリの行動主義の先生だった。挫折する学生も多かったけど、僕はあの授業を面白いと感じていた。今でも講義のレジメが残してある。

 それはともかくとして、僕は心理学の実験が面白いと感じていた。そして、学問としての心理学にとっては、実験心理学こそ王道なのだと、今でもそう信じている。
 他の事柄でもそうだけど、魅力だったことが欠点に変わっていくものである。あれほど実験が面白いと感じていた僕は、やがて心理学の実験に疑問を抱き始めるようになった。こんな実験、僕たちの生活空間ではあり得ないなどと、生意気な反論をするようになり、僕は実験心理学から遠のいていった。
 それでも心理学そのものへの興味は失っていなかった。実験心理学から、一時、認知心理学に凝ったことがある。やがて、実験要素のより少ない心理学分野へと、僕の興味は移っていった。性格心理学、社会心理学、発達心理学などを経て、フロイトに出会い、臨床心理学に傾倒していった。

 さっきも述べたように、実験心理学こそ心理学の王道である。僕はその実験っていう部分についていけなくなった。要するに、僕は心理学の落ちこぼれなんだと、自分でもそう思う。同じように、臨床心理学という心理学の一分野は、心理学の王道から見れば、落ちこぼれたちの集まりなのである。僕にはそのようにしか見えないのだ。
 どれだけ偉い臨床心理の先生でも、実験心理学の先生には敵わないのだ。テレビに出ている臨床心理士なんかを見ると、もう少し分を弁えた方がいいのではないかと忠言したくなる。心理学の世界から見れば、僕たちは落ちこぼれなのだ。劣等生なのだ。多少はその自覚を持った方がいいと僕は思うね。

 実際、臨床心理学の先生ほどたくさんの本を書く人はいない。実験心理学の先生はそれほどたくさんの本は書けないのだ。実験に時間がかかるからである。
 何か一つの仮説を立て、その仮説を証明するためには実験手続をとらなければならない。その実験手続が、検証しようとする仮説の検証手段として適正なものであるかどうかも検討されなければならないし、実験の結果に統計処理を施さなければならないし、その統計処理の適正さも同じように検討されなければならない。それを学会なんかで発表すると、必ず、実験上の不備が指摘されたりする。そうなると実験のやり直しである。
 実験心理学の世界では、どんな実験でも必ず不備が指摘されるものである。僕の知る限りでは、そういう指摘のされなかった実験はパブロフの条件反射の実験くらいではなかろうかと思う。
 場合によっては何度も何度も実験を重ね、そうしてようやく仮説が証明されたと認められれば、初めてそれを論文にして発表できるという流れだ。実験心理学者は一つの論文を書くのでさえ、相当な年月を要するものなのだ。必ず、どんな実験手続を採用したのか、実験の経過はどうであったのか、どのような結果が出て、どのような統計処理を施したかをきちんと記述しなければならないのだ。

 その点、臨床心理学の世界は実にいい加減なものだ。はっきり言えば、先に言った者の勝ちというところがある。「言うたもん勝ち」なわけだ。それが実験的に実証されなくても構わないのだ。むしろ、一般の読者は、いちいち実験手続なんて読まされたいとも思わないだろうから、臨床心理学は非専門家のニーズにも適合しているのだ。
 ある一例において成功したやり方を、「○○療法」と名付け、その治療法の創始者になることも、臨床心理学の世界では可能である。フロイトの精神分析もそういう形で誕生したのだ。実験心理学では、当然、これはデータが少なすぎるし、統計処理にかけることができないので却下されるものである。でも、臨床心理学ではそれが通用するのだ。

 僕もまた落ちこぼれ人間なのだ。心理学を勉強してきて、それも王道の心理学から入って、結局はそれについていくことができず、王道から外れた領域に赴くことになったからである。心理学から見れば、カウンセラーや臨床心理士なんて落ちこぼれなのである。僕も自分がそうであることを認める。ただ、僕は自分がそういう落ちこぼれた人間であり、王道から外れた分野で生きているという自覚がある。どんぐりの背比べでしかないけど、そういう自覚があるだけ、他の臨床心理士なんかよりもましだと思っている。
自分たちのやっていることが一番正しいと信じているような臨床心理の実践家や研究家は、僕から見れば、むしろ怖い存在である。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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