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2016年11月22日 火曜日

11月22日:記憶の消去

11月22日(火):記憶の消去

 定休日。ひどく具合が悪い。足の方も痛むし、風邪気味である。今日は家で休むことにした。
 休むと言っても、まったく休養なんてできなかったが。サイト用の原稿を書き、過去に書いたものを読み直したりして一日過ごす。その他に特別なことは何もしなかった。

 新聞を開く。某脳研究グループが恐怖の記憶を消す実験に成功したとあった。読んでみる。なんてことはない、1950年代や60年代の行動療法と同じことが書かれていただけだった。何も新しいことはない。
 しかし、記憶を消すというのは正しくない。記憶にまつわる感情の消去ということであって、記憶は記憶のまま残っているのだ。ここは間違えてはいけない部分だ。

 偶然にも東北地方で地震があった。人々は津波の記憶が呼び覚まされ、不安に陥った人も少なくなかったようだ。
 あの研究はこの不安を取り除くということになるだろう。でも、それって、本当に必要なことなのだろうか。地震が来る。津波の恐れがある。過去の忌まわしい感情が喚起される。それは苦しい体験ではあるかもしれないが、この感情は本当に無用なものだろうか。消去してしまっていい感情だろうか。
 人々は不快な感情が喚起されることによって、適切な対処行動を採択しようとするのではないだろうか。たとえ不快な経験であっても、過去経験は現在を生きる上で役立てることができるのだ。
 さらに言えば、過去の恐怖感情を消去するということは、常に新しい恐怖体験をしてしまうということにならないだろうか。つまり、恐怖体験に対して免疫がつけられないのではないかとも僕は思うわけである。

 何よりも、この研究の問題点は、忌まわしい記憶、不快な感情の「消去」を試みている点である。僕が行動療法を好きになれないのも、「学習」と「消去」という語彙から連想されるイメージによるものである。ここでは、人間とはどんなことでもインプットでき、アウトプットできるという機械的人間観が濃厚に感じられるのだ。ベイトソン(だったと思う)が寓意的に指摘したように、人間はさまざまな反応を取り得るはずである。
 いずれにしろ、感情というものはやたらと消去するものでもないと僕は考えている。体験している本人には辛いことであるのは認める。しかし、その人がその感情体験をしているということは、その人の「自然」に属することである。その人にはその感情が喚起されることが必要なのでもある。取り去ればいいという発想は、僕には極めて幼稚に見えるのだ。
 不快なものは消去して、心地よいものだけを残していって、そうしてハッピーな世界に生きようというのは、成長発展ではなく、退行的・幼児的理想なのではないかと僕は考えている。
 それにしても、もっとまともな研究をアカデミックな人たちにはやってもらいたいものだ。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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