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2016年9月21日 水曜日

9月21日:要請

9月21日(水):要請

 今日、朝一番目のクライアントがキャンセルした。残念だけど、少しありがたい。僕には時間が必要だ。
 一昨日の夜、自分は死ぬんじゃないかっていう不安に襲われた。その不安について考えたいと思うし、それに業者に連絡する時間も欲しいと思っていたからだ。
 IT業者の方はまったく当てにならん。毎度のことであるが、いい加減頭に来る。
 不安の方は、僕の何かを変えていくことが求められているのだと思う。今の生き方を変えていくことが要請されているのだと考えている。不安は常にそうした信号であり、要請である。
 確かに、充実した毎日とは言いがたい。足の具合もだいぶん良くなったとは言え、それでも制限されているし、行動範囲が限られてしまうし、何よりも疲労感が著しい。しかし、充実していないのは、このせいだけではないと思う。ただ、それは不便であるということを意味しているに過ぎない。
 ただ、足はこれ以上良くなる見込みがなさそうに思われている。自分でも分かるのだ。きっと筋肉を巻き込んでいるんだと思う。だからこれ以上、いくら頑張っても曲げることはできないし、無理をすると激痛が走る。それに、力を入れると、太ももの筋肉が痙攣することもある。ひざだけの問題じゃないという気がする。
 場合によっては後遺症が残るだろう。仕方がない。でも、こうして自分の体も一方的に制限されてしまうのだなと思う。年をとるっていうことは、強制的に自分が拘束されるようなものだと思えてくる。外側から自分に足かせが課せられるかのよう。
 そんなことを考えていると、人生とはなんて儚いものだと、しみじみそう感じられてくる。

 昼休み。何も食べる気になれない。横になる。ふと、自立訓練をしてみようと思い立つ。若い頃、熱心に取り組んだものだった。今でもできるだろうか。やってみる。時間はかかったけど、昔のようにできた。できたと言っても、最終の公式まで至ることはなかったので、途中までという意味だ。
 自律訓練法はけっこう難しいと僕は思う。いかにも手軽にできそうに書かれてあっても、実際にやってみると手強いものである。それに繰り返し何度も練習しないといけない。順番に1ステップずつマスターしていかないといけない。けっこう厄介なものである。
 途中の公式までとは言え、やってみると、少しばかり頭がすっきりした感じがある。まあ、時々やってみるのも悪くないかなという程度だ。
 どんなことにも特効薬なんてないし、即席の手段なんて当てにならんものだ。

 夜は少しだけお酒を飲む。いつもの立ち飲み屋に入る。すると、泥棒に入られたという話を聞かされた。気の毒に。
 被害額は小額だったとは言え、こんなこじんまりした店に泥棒が入るなんて、なんとも貧乏くさい話だ。犯人は店のようすをしっていたのだろう。おそらく客として入って、偵察したものだろうと思われる。
 しかし、単独犯でない場合、事情はちょっと込み入る。偵察班と実行班が別々の場合だってあり得る。何よりも、一度成功したら、再犯される可能性が出てくる。泥棒に入られる所は繰り返し狙われるものである。二回目は、一回目とは別の実行班によって行われるかもしれない。
 でも、どうせ泥棒して罪を負うのなら、もっとでかいところを狙えばいいのに。スケールが小さすぎる。

 人は常に要請される存在だ。その要請に無自覚であると、不安に襲われたりするが、この不安は要請に気づけというサインなのだと僕は捉えている。僕は何かを要請されているのだ。
 あの泥棒たちは、自分に向けられた要請に無自覚だったに違いないと僕は思う。犯罪者はそういうものである。人生が課してくるもの、自己の存在が要請してくるものに目をつぶるのだ。
 そして、要請は一回限りということではない。常に新たな要請が課せられる。僕たちはそれに応じていかなければならない。自己実現とは内面から発せられる要請に応じることである。よりよき生を送りたいなら、要請を無視して、外的なことばかりにかまけていてはいけない。時には、要請に耳を傾け、それを実践していくということもなければならない。
 さて、今の僕は何を要請されているのだろうか。それが見えてくるまで、もう少し試行錯誤しなければならないようだ。それに必要な時間もかけなければならない。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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