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2016年7月20日 水曜日

12年目コラム(49):出会った人たち~できないことはさせない人たち

12年目コラム(49):出会った人たち~できないことはさせない人たち

 いつだったか、新聞の広告で、「論語」の孔子は論語に描かれているような人ではなかったという本のことを見かけた。正直、僕は驚いた。僕にとっては当たり前すぎることをわざわざ本にしているということだ。こんな内容の本が出版されて、売れるなんて、案外、世間の人は無知なんだなと思った。
 孔子がそれを実践していたかどうかは別問題なのだ。孔子の思想が素晴らしいから「論語」は残っているのである。思想の世界ではそういうことが普通にある。ニーチェのブームがあったけど、ニーチェだって、天才だとは思うけど、精神病で生活は破綻寸前という人だった。でも、その思想が素晴らしいのである。
 一般の人が間違えている点は、僕の見解では、その人の思想とその人の人格との同一視にあるのだと思う。素晴らしい思想の持ち主だから本人も素晴らしいのだという決め付けをしてしまっているのだと思う。
 イエスだって、神の信仰を唱えながらも、十字架に架けられた時、「神よ、どうしてわたしを見捨てるのですか」と嘆いた。最後の最後でイエスは信仰できなかったのである。
 臨床心理の分野でいえば、フロイトは神経症だったけど、その神経症理論は受け継がれているし、ユングは分裂病だったが、その思想は分裂病治療に大きな痕跡を残している。ライヒも後年はおかしな方向に走ったし、サリヴァンも一時期分裂病に罹患していたとも言われている。児童分析で著名なメラニー・クラインの子供は自殺しているとも聞いている。
 もし、一般の人たちの見解に従えば、自分の病気も治せないような人の理論は信用できないということになるだろう。それこそ思想と人格の同一視をしているのだ。

 ずいぶん前置きが長くなった。あるカウンセラーさんが、「私は自分にできないことはクライアントにはさせない」と話したことがある。僕は激怒して、そのカウンセラーをぶん殴ってやりたい気持ちに襲われた。あの時、僕の言いたかったことはこうだ。「あんたは自分のクライアントを自分以下に留めておくつもりか」と。
 過去の偉人たちは、自分にできないことを説いてきたのだ。自分にできないからこそ、それが目標になり、他の人々の目標にまで高められるのだ。そして、偉人たちはそれを達成できなかった。でも、その達成のために偉人たちが考えてきたことに価値があるのだ。僕にとって、これは当たり前すぎるくらい当たり前の知識だった。
 僕もクライアントに何かをやってもらうことをお願いしたり、何かを教えたりすることもある。もし、そこで「そういうあんたはそれができるのか」と問われれば、僕は正直に「僕にはできません」と答えるだろう。そして、「僕にはできないけど、あなたは僕以上の能力を持っていると僕が信じているから、そう言うのだ」と続けるだろう。
 そう、自分にできないことでも、相手はできると僕は信じているのだ。相手は僕以上に有能だと信じているのだ。だから、自分にできないことはクライアントにさせないと言う彼は、クライアントをまるで信用していないのだ。むしろ、自分よりも能力がないと信じているのではないかとさえ思われてくる。だから許せない思いがしたのだ。クライアントに対する侮辱だと、僕は、正直、そう思う。

 話は変わるけど、これをお読みのあなたは電車の吊革に初めて手が届いた時の経験を覚えているでしょうか。僕ははっきり覚えている。
 兄や兄の友達たちは、とっくに吊革に手が届いている。僕は全然届かない。僕は自分があまりにも小っちゃいと感じた。体操選手のように吊革にぶら下がって遊んでいる兄たちを見て、毎回、僕は悔しくて、自分が情けない思いに駆られたものだった。
 背伸びをして、つま先立ちをしても届かなかった吊革に、ある日、自分の手が届いた時、それこそ天にも昇るような気持だった。それはもう嬉しくて嬉しくて、僕も体操選手のように吊革にぶら下がってみたりした。母は行儀が悪いと僕を窘めるのだけど、僕にとって、それは喜びの表現だったのだ。今まで届かなかったものに手が届くようになったことの感動を表現しているものだった。
 今、僕は吊革につかまっても、そんな感動をすることはない。毎朝、電車に乗って、あれほど手の届かなかった吊革につかまる。そこには何の感情の動きもない。もはや、この吊革に手が届いたことの喜びを敢えて人に話そうとも思わなくなっている。かつては自慢だったことも、今では普通のことになってしまった。
 そういうものだと思う。人は自分が普通にできることに関しては、敢えて語ろうとしないものなのだ。過去の偉人たちも、普通にできている事柄だったら、人々に教えようとはしなかっただろうと思う。自分にできないことだから、それについて考え、繰り返し語らざるを得なかったのだと思う。
 繰り返そう。人は自分にできることは他人に教えないのだ。自分にできないことを人に教え、その思想が生き残るのだ。そして、自分にできないことを人に教えるのは、その人たちの可能性を信じているからである。つまり、自分にはできないけど、彼らにはできるという信頼があるからである。

 もう一つ例を挙げよう。考えてみると、人間が二足歩行するということも凄いことなのだ。ロボット工学の世界では、ロボットを二足歩行させるのに難儀していた時代があった。今では二足歩行のロボットも珍しくなくなったけど、それが本当に難しいことだったのだ。
 二足歩行のロボットに成功したということがニュースになったくらいだ。それでも、その二足歩行はぎこちないものだった。
 僕がヨチヨチ歩きから二足で立ち上がった時には、きっと、吊革に届いた以上の感動があったのではないかと思う。ただ、覚えていないのだ。
 僕は二足歩行を、今では、普通に行う。どうして二足歩行しているかということを人に教える気にもなれない。当たり前にできているからである。また、それを人に教える術を持っていない。というのは、当たり前にできていることなので、殊更、自分がどうやって二足歩行しているかということを考えていないからである。
 おそらく、この経験は僕以外の人たちも同じだと思う。普通にできるようになった事柄に関しては、僕たちはもうそれ以上に考えることがなくなるのだ。その代り、自分にできないことをもっと考えたり、そのために努力したりするものなのだ。そういうものだと思う。
 人と話しができないという人は、人と会話できるようになるために考え、努力するだろう。その人が人と会話できるようになると、彼にとって、以前のテーマは重要でなくなるし、無意味になるだろう。そして、今度は、どうすれば上手に相手に伝わるだろうかということを考え、そのために努力をするようになる。普通に相手に伝わるようになると、今度はどうすればみんなを楽しませることができるようになるかということを考え、そのために努力するようになるかもしれない。どの人も、自分にできないことを考えるものである。
 こうして、僕たちは常に次の課題に晒されることになるものだ。常に今の自分にできないことを考え、追い求めていくものだと思う。「自分にできないことはクライアントにさせない」というカウンセラーは、クライアントの人生から各種の課題を奪っているだけなのだ、僕にはそう思えてならない。
 過去の偉人たちは自分でも実現できないことを説いてきた。自分にできないことを説いてきたのだ。そして、間違いなく、その思想が人類を向上させてきたのだ。その思想が我々を超越しているからであり、その思想が人々を牽引していったのだ。
「自分にできないことはクライアントにさせない、説かない」と言ったあのカウンセラーのクライアントたちが不幸である。彼らは自分を向上させてくれるものをカウンセラーから得ることができないからである。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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