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2016年4月20日 水曜日

12年目コラム(32):人間の潜在性(1)

12年目コラム(32):人間の潜在性(1)

 哲学の領域では「潜性」と呼ばれたりするが、ここでは「潜在性」と表記する。多分、この方が分かりやすいと思われるし、より適切な感じもするからである。
 人間は何よりも「潜在」的な存在である、これが本論の基本となる命題である。

「潜在性」の例を挙げよう。
 僕が泳げるか泳げないかは、きっと外見では判断がつきかねると思う。でも、一たび、僕を水に沈めてみれば、僕が泳げないということが一目瞭然となる。この時、「泳げない」というのは、僕が潜在的に有していた要素ということになる。
 交通事故に遭った息子が車の下敷きになり、母親がその自動車を持ち上げたという外国の例も聴いたことがある。その力はこの母親に潜在的にあるものだったのだ。
 いろんな例を挙げることができる。『葉隠』の中に、「死にもの狂いでやってみれば、大きな仕事ができるものである」といった表現とその実例とが繰り返し現れるが、これも人間の潜在性を言っているものと僕は解釈している。
 自分でも思いもよらなかった閃きが生じたり、咄嗟のことで普段の自分ならできないようなことができたり、ダメで元々の気持ちで臨んだら案外上手くいったり、そういう場面を経験したことがないでしょうか。それらはすべて「潜在性」を表しているものだ。

 ここで、人間の「潜在性」について、その特徴をまとめておこう。
「潜在性」とは、今の当人に「顕在化」されていないすべての部分を含んでいる。そして、条件や状況が揃えば、それが顕在化する。まず、こういう特徴がある。
 僕の例で言えば、「泳げない」は普段の生活で顕在化することはない。でも、僕を水に沈めるという状況になると、それが「顕在化」するということだ。「潜在性」には、それが「顕在化」する状況や条件が要されるという一面がある。
 僕の「泳げない」という潜在性要素は、僕には意識されているものである。でも、無意識で無自覚なものもあるし、「潜在性」に関しては、むしろそういうものの方が多いだろう。死にもの狂いで大きな仕事を成し遂げたという場合、その能力は当人に日常的には意識されていないものである。
 これを「潜在能力」と呼んでも構わないけど、僕には何か「能力開発」のイメージがつきまとってしまい、あまりその言葉は使いたくない。それに、「潜在性」は何も「能力」に限ったことではないからだ。

 もっとも身近に経験する「潜在性」は遺伝と発達の分野である。
 僕たちは莫大な数の遺伝子を持っているそうである。そして、それらの遺伝子のうち、顕在化されるのはごく一部らしい。残りの遺伝子は、遺伝子としては有しているけれど、表に現れないそうだ。顕在化しない遺伝子は常に「潜在性」である。状況や条件が揃えば、それが顕在化する可能性がある。「がん遺伝子」などはその一例である。「がん遺伝子」を有していても、癌にならないこともある。しかし、癌細胞が発生する条件が揃うと、「がん遺伝子」を有している人ほど癌の危険性が高まるそうだ。
 発達もまた「潜在性」要素である。俯いて鏡を見ると、10年後の自分の顔が見えると聞いたことがあるけど、それが本当なら、今の自分にすでに「10年後の自分」が潜在的に含まれているということになる。
 発達段階という考え方は、人間がいかに潜在的であるかを示すものだ。最初にこの段階が現れ、次にこの段階が、その次にはこういう段階が来るということが発達段階の理論で言われる。実際、そのように観察され、必ずその順番に発達が進んで行くのである。従って、今は途中の段階にある児童でも、次にどの段階が来るか潜在的に決定されているわけである。
 個人の有する可能性もまた「潜在性」要素である。その可能性は現在の当人には「顕在化」されていない、つまり、開かれていないかもしれない。しかし、当人とその人を取り巻く状況や条件によっては、それは「顕在性」要素になっていくかもしれない。
「治癒」とか「変容」ということもまた「潜在性」要素である。僕はクライアントの方々が「変わって」いかれる場面を何度も見てきたけれど、どうしてその人がそんなふうに「変容」したか、あるいはそんなふうに「治癒」したのか、僕にはまったく分からない。「こういう経験をしたことで、このような変容がもたらされたのだろう」といった推測はできるけれど、どうしてその経験がそのような変容をその人にもたらしたのかを万人に証明できるような説明が僕にはできない。ただ、そうなったとしか言いようがないのだ。

 読んでお分かりのように、僕は別に難しいことを言っているのではない。ごく日常的に僕たちが経験する範囲のことを述べているだけなのだ。
 しかし、次の点で間違える人が多いのだ。
 例えば、「考え方を変えると物事が上手く行く」という命題を額面通りに信じ込んで、「どうしたら考え方をかえられますか」などと尋ねてくる人もある。自分の考え方なんて、訓練次第で変えることができるものだと僕は考えている。
 ただ、ここで言う「考え方を変える」というのは、それ自体が目的なのではないということを押さえておきたいのだ。本当の目的は、「考え方を変える」ことによって、望ましい「潜在性」諸傾向が「顕在化」されることにある。
 非常に内気な人が、考え方、物の見方を変えただけで、見違えるように陽気になったという例があるとすれば、その「陽気」という傾向は、その人が潜在的に持っていたものである。認知を変えたことによって、それが顕在化したということである。
 また、「人を褒めて伸ばす」ことを試みる人の大部分(と僕は信じている)は、その褒めることを一番の目的にしてしまうのだ。本当は、賞賛によって、相手の望ましい潜在性要素を顕在化するということが一番の目的であるはずなのだ。
 もう一つ、僕が耳障りな日本語だといつも思うのは、「元気をもらいました」とか「勇気を与えられました」とか、「感動を受け取りました」といった表現である。これらの言葉に触れると、激怒したくなる。その元気も勇気も感動も、すべてその人の中に初めからあったものなのだ。潜在的に有していたものが、顕在化され、意識化されるようになったということなのだ。自分の中にあるものを外から与えられたかのように表現しているのだけど、こういう言葉は不正確過ぎるように僕には思われるし、自己欺瞞を起こしているようにも思われるのだ。

 少し脱線した上に、分量も多くなったので、続きは次回にする。

(寺戸順司)



投稿者 高槻カウンセリングセンター

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