<Q028>苦しくなることはないか

<Q028>「カウンセリングを受けて苦しくなることはありませんか?」

<状況と背景>
 この質問を寄越された方は、最初の一言目にこの問いをされたのでした。どういうことなのかを私が尋ねても、「そちらでカウンセリングを受けて苦しくならないか」というように、問いを繰り返されたのでした。
 この人に関することは一切分かりません。過去にどこかのカウンセリングを受けて苦しくなったという経験をお持ちなのかもしれません。そういう経験がなくても、私に「苦痛を与える人間」というイメージを付与しているのかもしれません。後者の場合だと、この人からすると臨床家はとかくサディスティックな人間に見えるということになると思います。
 この質問者のことが何も分からないので、この人にどう答えていいかもわかりませんでした。結局、あなたが苦しむかどうかは分かりませんと答えたように記憶しています。

<A>
 この種の質問に対して、私は正直に申し上げなければならないと思っています。いたずらに質問者の不安を掻き立てるのも良くないことだと考えていますし、そのために嘘を伝えることも憚れるように思われてくるのです。
 カウンセリングの間に苦しい経験をしてしまうクライアントは確かにおられるのです。その苦しい経験は、まったく不必要であるとも思われないし、回避すべきものであるとも私は考えていません。不要な苦しみ(というものがもしあればということですが)は回避すべきだとは思うのですが、苦悩のすべてが不要であるとは考えていないのです。
 こんなことを言うと、これからカウンセリングを受けようと思う人たちに二の足を踏ませることになるのではないかと危惧しているのですが、一方では、こういうことも率直に伝えることが私の義務だとも考えています。
 まず、「心の病」とか「心の問題」と呼ばれている現象は、その人の弱い部分とか辛い体験、未発達な領域、見たくないと思っている経験などと深く関わっていることが多いのです。カウンセリングでは、そこに目を向けることにもなるので、ある種の苦しみがどうしても付きまとってしまうのです。他の分野でも同様のことが生じるのですが、外科手術で喩えれば、患部を治療するのに手術の痛みがどうしても伴ってしまうというのと同じではないかと考えています。
 クライアントにとって苦しい部分に触れることになるかもしれない、だから、カウンセリングは何よりも安全にやっていかなければならないのです。私はそう考えます。効果があるかないかよりも、クライアントにとって安全か否かの方を最優先しなければならないのです。
 しかし、いくら安全にやっていくことを心掛けていても、どこかでクライアントは自分の苦しい領域に触れていくことになるのです。肝心な点は、これはただ苦しいという体験で終わらせてはいけないということです。
 この苦しい領域に触れるのを臨床家がサポートしてくれるということ、臨床家と一緒にその苦しみを見るという経験がクライアントを救うと私は考えます。
 どのクライアントも、いきなりそこに目を向けることなんてできないし、最初からその領域に踏み込むこともないのです。もし、そういうことができるとすれば、そのクライアントは「悪く」なる素質を持っていると私は個人的には考えています。それはさておき、大抵の場合、臨床家との関係において、支持を体験し、その体験を積み重ねていくうちに、徐々にクライアントはそこに触れていくようになるのです。
 私の個人的なクライアント体験では、私はそういう辛さを体験すると同時に、カウンセラーが一緒に見てくれているという安心感もありました。だから、ここで言葉で説明しているほどの苦痛にはならなかったのを覚えています。
 従って、苦しくなるかならないかを問い続けるよりも、臨床家の支持を内面化できるかどうかが問われなくてはならないことだと私は考えています。

<補足と説明>
 その人がカウンセリングを受けて苦しくなるかどうか、私には分かりません。予知能力でも持ち合わせていない限り答えられない問いだと思います。
 それでも、この人は苦しくなることを恐れており、その苦しさに耐える強さが自分にはないと感じているであろうことは推測してもよさそうに思います。
 当然、どんな種類の苦しみをこの人が想定しているのかも考えなければならないことだと思います。どんなことにも苦しみというのは付きまとうものだと思います。何かを習熟していく中にも、成長していく過程においても、苦しみが伴う時期があるものです。スランプに陥ったり、過渡期に差し掛かったりした時にはそうではないでしょうか。趣味や娯楽の領域でさえ、苦しみが伴う瞬間はあると思います。一体、質問者にとって一番困る苦しみとはどういうものだったのだろうと、そこにも疑問を覚えています。
 どういうことが、どんなふうに自分を苦しめてしまうとこの人は考えているのでしょう。ただ苦しむか苦しまないかという観点だけでは何も前に進まないと私は考えています。だから何も答えようがないし、考えようがないと思うわけです。

 一時期、グリム童話は本当は怖いという話が流行ったことがあります。なぜ童話や昔話の類には怖い内容や残酷な場面があるのでしょう。
 それに関して、ある臨床家の先生の話が印象的でした。童話は母親が子供に語って聞かせるものです。たとえその童話が怖い内容のものであったとしても、そこには母親と一緒という安心感が子供にはあるのです。物語の内容よりも、それが大事なのだとその先生は話されていました。
 私が思うに、そこから子供は「安心感」を内面化していくのだということなのでしょう。安心できる対象(ここでは母親)と一緒に見るということを重ねていき、母親が内面化されることによって、子供は一人でもその怖い対象を見ることができるようになっていくということなのです。この子は、以前よりも「強く」なったと言えるのですが、それは安全な対象を取り入れているからであり、怖さに曝され続けているからではないのです。

 そのような観点で考えると、この質問者は安心感が十分に育っていない人と言えるかもしれません。それでこの人にとっては、自分に対して施される事柄に対して恐怖心を抱いてしまうかもしれません。そこで恐ろしいからといって回避してしまうとすれば、この人には安心感が育つ機会が一つ失われてしまったということになるのではないかと、私はそのようにも思うのです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)