<Q025>子供に受けてほしい

<Q025>「子供に受けて欲しい」

<状況と背景>
 主に母親から受け取る質問であります。子供は、何か「問題を抱えている」か、家族の中で「問題あり」とみなされている状況があり、母親が子供に「治療」を受けて欲しいと望んでいるのです。でも、子供は「治療」に反対しているか、消極的であるという状況であります。
 ちなみに、この種の問い合わせには、家族に受けて欲しいというものと、家族以外の誰か(友人とか部下など)に受けて欲しいというものとがあります。両者は違ったふうに考えなければならないと私は考えています。ここでは前者の場合、家族に受けて欲しいと望むもので、特に母親が子供に受けて欲しいという状況を取り上げます。

<A>
 私の回答は、「それならお母さんが受けに来なさい」というものです。
 本人が来なければ意味がないと考える臨床家も私は知っているのですが、それは正しくないと私は考えています。仮に子供が何か困難を抱えているとしても、臨床家と母親でそれを一緒に考えていくこともできれば、子供にとって望ましい関係を作っていくこともできると私は考えています。いささか楽観的でありますが、必ずしも本人が来談しなければならないとは私は考えていないのです。
 しかし、何よりも、この母親たちが一番苦しめられていたり、痛めつけられたりしている例が多いのです。家族の中で「問題を抱えている人」と、家族の中で「一番困らされている人」とは一致しないことも多いのです。
 母親が子供のことで苦しんでいるので、子供を何とかしたいという気持ちがあるのだと思います。あるいは、自分が苦しめられているので、子供も同じように苦しんでいるのではないかと推測してしまう母親もおられることでしょう。やはり子供も苦悩しているように見られる例もあれば、子供は苦悩を体験していないかもしれない、そう思われる例もあります。
 いずれにしても、電話をかけてくる人が一番困難を抱えているものだと思います。だから、この母親こそカウンセリングが必要であり、援助を求めているのだと私は考えます。従って、そのカウンセリングは、子供のためになされるものではなく、母親自身のためになされるものになるのです。

<補足と説明>
 さて、私は母親に来談を薦めます。その後の経緯はケースによりさまざまです。

 まず、「問題を抱えているのは子供であり、私ではない。だから私が受ける必要はない」と頑なに拒む母親がおられます。
 なるほど、その見解は確かに正しい。問題を抱えているのは子供の方だ。だから「治療」が必要なのは子供の方だと、とても合理的に考えておられるようです。
 しかし、ここには矛盾があるのです。と言うのは、母親は一方ではカウンセリングに価値をおいているのに、他方ではカウンセリングの必要性を認めないという態度を取っておられるからです。この態度は子供にそのまま伝わるのではないかと私は考えています。

 次に、一回だけ受けに来る母親がいます。「私だけ最初に受けてみます」ということです。
 その一回において、母親は必ずしも悪い経験をしないことが多いと私は感じています。母親は自分が一番苦しんでいるかもしれないとどこかで感じていたりして、そこを理解してもらえたという経験をするからです。
 しかし、最後には、これが必要なのは子供の方だという見解に戻られるのです。ここにはいろいろなパターンがあり、なかなか一概には言えないのですが、ある母親は自尊感情の低さから自分が援助をされることに抵抗を覚えるようでしたし、別の母親は自分に取り組むことを避けたいという気持ちが強かったようでした。また、別の母親は、カウンセリングもさらに自分に受苦を与える苦行のようなものと認識してしまいました。

 最後に、継続する母親たちがいます。
 この母親たちの多くは、カウンセリングを受けるまで、家族の中で自分が一番苦しんでいるかもしれないということにまったく気づいていませんでした。そして、しばしば、この母親がいるおかげで家族が成り立っているというような例も見られるのです。
 この母親たちの中には、自分が家族の中で一番重要な位置を占めているということに改めて気づき、自分の重要性ということを認識し始める人もあります。私はそれでいいと思います。子供は子供で何か問題や困難を抱えているとしても、それとは別に母親が救われなければならないと私は考えています。
 ここからが重要なところです。母親がカウンセリングを受けに行く、それを子供は知っているのです。見た目には分からないかもしれませんが、おそらく、この子たちは母親のカウンセリングを過剰に気にしているものだと思います。平気な風を装ったり、無関心を装ったりしたとしても、子供はひどく意識するものなのです。
 子供の側からすれば、母親がカウンセリングに行くということは、自分のことを取り上げられるのだろうと信じるのです。なぜなら、家族の中で自分が「問題児」とみなされていることを、子供はしっかり意識しているからです。だから、母親のカウンセリングに、子供は無関心ではいられないのです。母親がカウンセリングを受けるということが、この子供の心を掻き乱してしまうのです。
 しかし、もし、この母親がカウンセリングをとてもいいものだと経験していれば、子供に「カウンセリングっていいものらしい」という気持ちが生まれるかもしれないのです。一回で止めたり、自分には必要ないといって拒む母親は、子供からすると「カウンセリングって、結局、良くないものなんだ、意味がないものなんだ」という認識につながることでしょう。
 もし、この子は、「お母さんがあれだけ熱心に通っているカウンセリングというものは、なんだかいいものらしい」と思えば、いつかこの子はカウンセリングに訪れるのです。そういう形でお会いした子供さんが何人もおられるのです。
 こういう家族の問題では、母親が価値を置いているものに、子供も価値を見出す可能性があるのです。母親が「必要ない」と信じることは、子供も「それは必要ない」と信じてしまうのです。従って、詳述はしませんが、「私には必要ではない」と母親が信じれば、子供も同じことを信じてしまう可能性があるわけです。

 だから、子供にカウンセリングを受けて欲しければ、母親がカウンセリングを継続することが必要になってくるのです。そして、母親がそれを良いものと体験し、希望を見出すなら、それは子供にとっても良いものに映じ、希望につながるのです。
 母親が援助を受け、救われていく姿を子供が見ることが大切なのです。もちろん、子供はすぐにはそれと認めないでしょう。母親だけ救われて不公平だと思うかもしれません。一時的にそういう段階を経るとは思うのです。
 しばしば、母親たちが間違えるのは、「子供に受けて欲しい」という望みを、すぐに叶えようとしすぎるところにあります。子供にそんなもの受ける気がないとすれば、その気持ちを強制的に変えなければならなくなるわけです。もちろん、私はそういうことをしたいとは思いません。そこを強制することはできません。自然に、その子の気持ちが動いていく方がいいと考えています。

 では、母親が継続すると、子供は必ず受けるようになるかと言いますと、それも必ずそうなるとは断言できないのです。ただ、子供が来談する可能性が高くなるというだけのことです。
 それなら意味がないとお考えになる人もあるかと思います。私はそうは思いません。継続する母親は、最初は子供のことで来談されたとしても、やがては自分自身のことで来談されるようになるのです。このカウンセリングを自分のために活用していくのです。だから継続できるのであります。
 100パーセント純粋に子どものために受けるのであれば、母親は、それこそ一回目でウンザリしてしまうでしょう。子供のことで、これまでもさんざん苦悩してきたのに、さらに子供のために奉仕しなければならないとなれば、いくら実の母親であっても、心身がもたなくなることでしょう。

(付記)
 私はこの文章を子供のことで苦悩している母親に読んでほしいと願っています。実は、こういう母親からの依頼を私は頻繁に受けるのです。できれば、援助がうまく行ってほしいと私は願うのです。そのために母親にも知っておいてもらいたいと思うことがあるのです。
 はっきり言えば、この問いはとても深い問題領域を含んでいて、とてもこのわずかなスペースで述べ切れる類の問いではないのです。長文になることを覚悟の上で、もう少しこのプロセスを述べようと思います。
 子供は、それが何歳の子供であれ、人生のどこかで挫折や失意を経験してしまっているのです。そこから、子供の人生も精神も前に進めなくなっているのです。前に進めなくなると、人は後退するのです。それを退行と呼んだりするのです。退行すること自体は、私たちの誰もが経験することなのですが、今はそれに触れないでおきましょう。子供の状態は、退行の程度によるのですが、幼い子供の状態に近いものであると仮定できるのです。
 子供のことで母親が困っているということは、この子供にとって、母親が主要な存在になっているということが窺われるのです。それも幼い子供が必要とするような形で母親を必要としているのです。
 母親にとっては負担が大きいと感じられるのも無理はないと思います。子供がすでに大きくなっている上に、(失礼な話ですが)母親も高齢になっていて、子供を抱えきれないと感じている例も多いのです。
 さらに母親自身の不安などもそこに関与してくるので、母親が不安定な状態に陥るということが生じるのです。
 そうして母親が不安定になったりすると、子供はますます母親にしがみつかなければならなくなってしまうのです。そこで、母親が援助を受けることによって、母親自身が安定を取り戻していくと、子供のしがみつきが減少し、母―子供の間に良循環が生まれることになるのです。
 このことは、たとえて言えば、丸太一本で海に漂流している人をイメージすれば理解できるでしょうか。この人にとって、この丸太(不安定になった母親)は決して手放すことができないものです。絶えずしがみついていなければならない対象であり、失うことの許されない(自己の)一部となっているのです。一方、大きな船(安定した母親)で航海している人は、もっと安心感があるでしょうし、船の上で自由に動くことができるでしょう。
 しかし、この移行(良循環が生まれること)は速やかに行われるとは限りません。子供に動揺が生まれてしまうこともありますし、その動揺に伴って、母親が再び不安定になることだってあり得るのです。
 私の経験した限りでは、子供はまず母親の変化に気づくのです。母親と自分の差異を見てしまうのです。そして、これが許されないことになってしまうのです。先述の例で言えば、しがみついている丸太が変わってしまうということになるでしょうか。対象は自分の一部のように、自分と同質でなければならないという感覚があると、猶更、この変化や差異が子供にとっては受け入れがたいものになってしまうでしょう。
 この段階は子供にとっても辛い段階でありますし、母親にとっても試練になってしまうこともあります。子供は母親を以前の状態に戻そうと試みるかもしれません。今まで以上に母親の手を焼かせるようになるかもしれません。それでも母親が安定していれば、必ず次の段階に移るようになるのです。
 次の段階とは、母親と共有できるものがあれば安心できるという段階であります。子供は、それまでは現実の母親にしがみつき、母親を独占し、母親が自分と異なっていくことに耐えられないでいました。現実につながっていなければいられないという段階でした。それから、共有される何かでつながっていられるという段階になるわけであります。共有される何かは一つとは限りません。たいていは複数の何かでつながるようになるという印象を私は受けているのですが、その一つがカウンセリングである場合もあるのです。今はカウンセリングに限定して話を進めましょう。
 母親がカウンセリングを受ける。その同じカウンセリングを自分も受けているということが、母親との共通項になるのです。母親が価値を置いているものを、自分も同じように価値を置くようになる、現実に一体でなくても、間接的な何か、共有されている何かで一体感を体験できるようになるのです。
 先述のように、こうしたプロセスは速やかに進行するとは限らないし、母親も子供も行きつ戻りつすることもあります。そしてプロセスはまだまだ続いていくとは言え、この段階で母親はかなり楽になってくるはずです。ある母親は「あの子に手がかからなくなってきた」と表現されましたが、その通りだと思います。子供が母親から離れることができるようになっていくからです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)