<Q023>どうして顔写真を載せないのか

<Q023>「どうして顔写真を載せないのですか?」

<状況と背景>
 これは主にIT関係の人たちから伺う質問であります。彼らはこのサイトにいろいろな提案をしてくるのですが、その中に必ずと言っていいほど、この提案が出されるのです。それ以外では、ごく稀にクライアントから質問されたことがあります。
 IT業者たちは、サイトに私の顔写真を載せるほうが、ユーザーも安心すると言うのです。でも、私はそうは思えないのです。それだけのことで人が安心を獲得できるとは、私には信じられないのです。もし、安心できたように体験された人があるとすれば、それは顔写真を見ることによって、その人の興味が満たされたというだけのことではないかと私は思います。

<A>
 ごく短い期間だけ私は自分の顔写真を掲載したことがありましたが、これは失敗でした。恐らく、今後は顔写真を載せることは一切ないでしょう。
 私が私の顔写真を載せないのは、クライアントに対して誠実でありたいと願うからです。顔写真を載せるということは、それだけで、私の場合、クライアントを欺く行為に思われてしまうのです。それは説明のところで述べます。
 あと、もう一つの理由として、顔写真がないということで、ユーザーは自由に私のことをイメージするだろうと思います。それはいいことだと私は考えています。顔写真を載せることで、その自由を制限したくもありません。

<補足と説明>
 私には「私」が写っている写真というものがないのです。恐らく、小学校以前のものは別としても、それ以後の人生で「私」が写っている写真というものが一枚もないのです。不思議に聞こえるでしょうか。少し説明した方がいいようです。
 私は写真を撮られるということがとても苦手なのです。カメラを向けられると緊張してしまい、強張ってしまうこともあるのです。もっと砕けた場面での写真でも、そこに写っているのはどこか身構えた私なのです。
 私は自分が写っている写真を見て、身構えた私をそこに見出すのです。それは普段の私ではないということが感じられるのです。普段の自然な私の顔(実際、どんな顔をしているのかは自分では分かりませんが)とは違っているように思われてならないのです。
 もし、このサイトに私の顔写真を載せるのであれば、実際に私がクライアントに見せている顔でなければならないのです。それ以外の顔を掲載することは、閲覧しているだけの人に対しては関係がなくても、現実に来談されて、私と会うことになったクライアントに対して、やはり不誠実であり、嘘をついてしまったような感覚に私は襲われるのです。

 私は、自分だけが特別だとは思わないのです。他の人たちも同じではないかと密かに思っているのです。
 例えば、今、これを読んでいるあなたへ、少し読むのを中断して、あなたが写っている写真を見て欲しいのです。どんな写真でも構いません。あなたが写っている写真を眺めてください。
 写真の中のあなたはどんな表情をしているでしょうか。楽しそうにしているかもしれませんし、真面目な顔つきをしているかもしれません。次に、このように問うてください。その表情は、あなたの自然な表情でしょうか。日常見せるあなたの表情でしょうか。
 私の想像では、多少は自然だけど、100パーセント日常の顔ではないとあなたは感じられたのではないかと思います。そういうものだと思います。
 そもそも、写真というのは特別な時に撮影するものではないでしょうか。その時、あなたは無意識的にであれ、「特別の時」用の顔をしてしまっているかもしれません。その場の雰囲気に応じてしまっているかもしれません。あるいは、自分をよく見せたいと取り繕っているかもしれません。もしくは、その写真の顔は、あなたの普段の顔ではなくて、「こんなふうに見られたい」とか「こんなふうに見て欲しい」とあなたがイメージする顔であるかもしれません。
 私は信じているのです。どの人も写真に写るときには、自然なままの自分ではなくて、どこか「不自然」なことをしているものだと。

 写真に写るときに、「写真用の顔」をして写ることは、何も不思議なことではないし、それ自体は罪でもなんでもないとは思います。ただ、クライアントになる人に対しては、前述のように、面接しているときの私の顔を提示しない限り、私はその人を騙しているような感覚に襲われてしまうのです。
 実際、面接の時の私は人間が変わるそうです。実習時代によく言われたものでした。普段の私を見ていると、本当にカウンセリングできるのかと心配する人もありましたが、いざ、面接場面になると、「カウンセラーの顔」になるそうです。少なくともその人にはそう見えたと言うことですが、自分でも、面接中の顔つきは普段の生活の中では見せない顔であるかもしれないとも感じています。

 視覚情報は本人を欺くことも多いのです。
 私たちの目は物事をあるがままに見ているわけではありません。多義図形や錯視図形などは、私たちがいかに目の前のものをそのまま見ることができていないかを証明するものであります。
 もし、私たちが物事をあるがままに見るのであれば、手品や映画を楽しむこともできないでしょう。映画などは、結局は、布地のスクリーンを見ているだけであり、映像なんて見えていないはずなのです。でも、実際、現実にあるスクリーンを見ずに、そこに映し出される映像の方を見ているのです。
 人は視覚で騙されるので、詐欺でも応用されてしまうのです。その手口だけ耳にすれば、なんでそんなものに騙されるかと思うのですが、実際に目の前でその手口を演じる人がいれば、しかもその演者が立派な演技をすれば、おそらく、簡単に騙されることでしょう。
 もし、私が人を騙すのであれば、写真を使うでしょう。文章で騙すよりも、映像で騙す方が簡単であるからです。そう、簡単なのです。私は私の顔写真を載せて、その下に「これが私、寺戸順司です」と表記することもできます。同じように、私は私以外の誰かの顔写真を載せて、その下に「これが私、寺戸順司です」と表記することもできます。それだけで立派にあなたは騙されるのです。なぜなら、その顔写真がまぎれもなく私であるということは、あなたには確認しようがなく、あなたは提示された情報を鵜呑みにするしかないからであります。
 私はクライアントに対して誠実でありたいと望んでいます。顔写真を掲載すると、IT業者の言うようにユーザーが本当に安心するとしても、どちらかを選ばなければならないのであれば、ユーザーの安心を犠牲にしてでも、不誠実なことはしたくないと思うのであります。

 さて、私が顔写真を載せていないので、閲覧者の中にはいろいろ私に関してのイメージを持たれていることも多いようです。
 現実にお会いしたクライアントに、私の印象を伺ってみます。すると、そこにはさまざまな「私」がいることに驚かされるのです。
 一部の人は、思い描いていたような人だったと答えます。他の人たちは、例えば「意外と若いんですね」(もっと高齢の私がイメージされていたようです)とか、逆に「もっと若い人かと思っていました」(若い私がイメージされていたということです)といわれたこともあります。「思っていたよりも優しい人なんだと思いました」(もっと怖い私がイメージされていたようです)とか、「あまりズバズバと言わないんですね」(もっとストレートに物を言う私がイメージされていたようです)とも言われたこともあります。
 列挙するとキリがないくらいなのですが、その他にも「親しみやすい人だった」とか「細かいことを気にしない人なんですね」とか、「賢い先生なんだと思いました」とか、さまざまな「私」が生まれていたようでした。
 これらの感想は、それぞれその人の中から生み出されたイメージであります。どうしてそういうイメージになるのかは、その人の抱えている事柄と関連があるものでありますが、ここではそこに触れないでおきます。
 大切な点は、それまで自分が生み出していたイメージと関わってきたことに気づくことであり、言い換えると、現実に気づくということであります。イメージと現実との違いに気づくことであります。
 視覚に訴えるものは、すべてイメージ形成に有効であります。視聴者をして、ある特定のイメージを抱かせようとすれば、そのイメージを掻き立てるような映像を提示すればいいのです。
 我ながら恥ずかしい話ですが、コカコーラを飲むとあれだけハッピーになれるのなら、毎日コーラを飲もうかなと考えた時期が私にはあります。落ち込んでいた時期のことです。別にコカコーラさんの批判とか悪口を言うつもりはありません。それで、実際にコーラを飲んでみたけど、結局、私は現実とイメージの違いを知っただけでした。でも、それを知ったということは有益だったと思います。却って、イメージに惑わされないようにしようと意気込みを新たにできたからであります。
 CMとか、宣伝、広告というのは、多かれ少なかれ、そういうイメージを売るものだと思います。その商品が良いかどうか自由にイメージされるようでは宣伝にならないのです。その商品がよいものだというイメージを持たせるように、映像で工夫しなければならないのです。
 この時、視聴者は、本来なら自由に思い描いていいはずのイメージに制限が加えられていることになります。私はそのように考えています。
 従って、もし、私がこのサイトに写真とか視覚に訴える映像を使用するのであれば、私は閲覧者の自由を制限することになってしまうでしょう。ここで自由を制限しておいて、カウンセリングの場面で「どうぞご自由にお話下さい」と伝えることは、私には矛盾として体験されるのです。それは、取りも直さず、クライアントに対して不誠実なことをしているのではないかという気がしてくるのです。

 今、動画広告の話が頓挫しています。当センターの動画広告を作ろうと決めたのですが、考えてみると、上記のような考え方を私がしているものですから、どうにも話が進まないのです。どこかで折り合いをつけなければならないとは考えているのですが、まだ、納得のいく折り合いができていないのです。
 一つだけはっきりしているのは、その動画広告に私の姿は映りません。それは今の段階では確実になっています。そして、できるだけ中立的な広告を作りたいという方向だけが決まっているという状態であります。

(付記)
 同じような理由で、私はリンクを貼り合うことをしていません。これもIT業者さんから提案されたことですが、アクセスを増やすためにリンクを貼り合ったらどうかというのです。
 私は他所様のサイトにリンクを貼ろうとは思いません。他所様にとっても迷惑になるのではないかと思いますし、何よりも、そんな難しい操作は私にはできないと思っています。
 同じように、他所様が私のサイトにリンクを貼ることも拒否しています。別に他所様を排斥しようという考えではありません。
 例えば、ある鍼灸院がこのサイトにリンクを貼ったとします。閲覧者は、私とこの鍼灸院さんとにつながりがあるとか、交友があるとか思い込んでしまうかもしれません。それに、この鍼灸院さんのリンクが一つあるだけで、閲覧者は制限され、ある種のイメージを方向付けてしまう可能性もあると思うのです。そういうことは避けたいと、私は願うのであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)