<Q022>何が書いてあるか分からない

<Q022>「何が書いてあるか分からない」

<状況と背景>
 これは主にIT関係の業者さんから頂く質問であるのですが、少数ながら問い合わせされた方からも頂く言葉であります。
 前に「どこに何が書いてあるか分からない」(Q016)ということを取り上げましたが、あれはサイトの中身の部分、「どこに」に焦点が当てられていました。ここでは「何を」という「内容」の部分に焦点が当てられています。その点が<Q016>と異なる部分であります。
 しかし、どの人も「どの部分の何が分からない」のかは表明されないのです。具体的にここが分からないなどと言ってもらえれば、それはこういう意味なのですよと教えることもできれば、確かにその部分の私の文章が分かりにくくて、誤解を招きそうだということにも気づくことができるのですが。
 それに、このサイトに「何が書いてあるか分からない」と読み手が感じたとしても、それは別に読み手にとっては問題ではないのです。むしろ、その人の個人的な感情がこういう言葉に変換されている可能性があるのです。例えば、自分の中が混乱していて、それを整理したいと思って読み始めたけれど、却って混乱したとか、何となく自分の重要な何かが得られそうだったのに、急に煙に巻かれたような気持になったといった体験を読み手がしているかもしれません。そうした不満感情がこういう形で現れていると考えることもできるわけですが、それはもう質問者個人の領域になるので、こういうQ&Aでは取り上げきれないことであります。
 ここでは、この質問をその言葉通りに受け取ることにします。

<A>
 それはそうでしょう。何が書いてあるか分からないのも当然だと思います。しかし、クライアントからはそれと反対の言葉を私はいただくのです。つまり「サイトに書いてあることがこういうことなのだと分かった」といった言葉を頂くのです。
 私がこのサイトで書く事柄の中には、カウンセリング関係に入れば分かること、その関係に入って初めて理解できることもたくさんあると思うのです。その関係の外に立って、関係の中で生じていることを読むのだから、分からないのが当然だと思います。
 それは、例えば、建物の外から室内の様子を説明されるようなものではないかと思います。説明されても、多少はそこからイメージされるところもあるとは言え、やはりよく分からない個所が出てくると思います。でも、一旦、室内の様子を見ることができれば、今度はその説明がよく理解されてくるのではないでしょうか。
 従って、自分と無関係の関係において生じていることを説明され、それを理解しようとしても、それが難しいのは当然のことであります。逆に、関係に入っていくとそれがよく理解できるということが生じるのも当然のことだと思います。

<補足と説明>
 何事もそうだと思うのですが、説明を読むだけではよく分からないという場面があると思います。例えば、クロールの泳ぎ方を文章で読んでもよく分からないでしょう。でも、実際にクロールで泳いでみると、そこで書かれていることが以前よりもよく分かるようになってくるというのと、同じことであります。
 傍観者の立場にいる限り、分からないことや不明点が生じるのは避けられないことだと私は考えています。何事であれ、傍観者から主体的な行為者へとなっていくことで、私たちは多くのことが理解できるようになるのだと私は信じています。

 ところで、上記以外の要因も「何が書いてあるか分からない」という言葉を生み出すことに関与しているのではないかと私は思います。
 確かに、心のことは難しい。具体的な事物として心を取り上げることができないからであり、そのためにどうしても抽象的な話になりがちなのは否めないことだと思います。
 それをできるだけ分かりやすく述べようとは試みているつもりですが、それも限界があるように感じています。
 対象が不可視なものであるだけに記述が困難であるわけです。それを記述しようとする私の文章力の問題も関係していることであります。
 そうしたいくつもの困難が記述の際には生じるのですが、本当に些細なことでも、それを説明することが相当に難しいということもあるのです。

 例えば、これをお読みのあなたに質問をしたいのですが、少しお付き合い願えればと思います。
 あなたは小学校1年生の時の担任の先生を思い出すことができるでしょうか。少し想起していただきたいのです。
 さて、あなたは今、小学校1年生の時の担任の先生が頭に浮かんでいます。でも、おそらく、それは証明写真のような姿で先生が見えているのではないと思います。特定の場面における先生が見えているのではないでしょうか。
 仮に、あなたには体育の授業中の場面が思い浮かんでいるとします。ここまでにいくつもの疑問があるのです。どうしてあなたは昔の担任の先生を思い出すことができたのか、どのようにして思い出したのか、そして他でもなくその場面の先生が思い出されたのはどうしてなのか。さらに、今、私から唐突に質問されて、あなたの中にどういう感情が生じたでしょうか。それは緊張感だったでしょうか。そうだとすればその緊張感はどうしてあなたに生じなければならなかったのでしょうか。あなたはこれらの疑問にどのようにお答えになられるでしょう。

 さらに複雑になるのは、多くの場合、ここに他者が関与するためです。
 例えば、あなたと小学校1年生時代の同窓生であるABCDさん4人がいるとします。小学校1年生の頃、4人ともあなたと同じクラスの生徒でした。同じ質問を彼らにもします。Aさん、Bさん、Cさんは思い出すことができましたが、Dさんは思い出すことができませんでした。
 Dさんはちょっと脇へ置いておきますが、あなたも、Aさんも、Bさんも、Cさんも、同じ先生が思い出されているはずであります。
 Aさんはやはり体育の授業風景での先生を思い浮かべているかもしれません。でも、Bさんは算数の時間で数式を黒板に書いている担任の姿が見えているかもしれません。さらに、Cさんは小学校の卒業式の日に校門で見送ってくれた先生の姿が見えているかもしれません。
 なぜ、あなたとAさんとは同じような場面での先生を思い出しているのでしょう。その担任の先生がスポーツマンタイプの人で、あの先生と言えば体育の授業がすぐに連想されてしまうのかもしれません。しかし、Aさんは体育の授業で特別に印象付けられるような何かを担任の先生との間で経験したのかもしれません。
 Bさんは、同じ先生が見えているのだけど、なぜか算数の場面です。あのスポーツマンタイプの先生からは、算数の授業はなかなかイメージされないかもしれません。そこにはあの担任に対するBさんの個人的な感情が影響しているかもしれません。Bさんは担任の何かを否認したいと願っているかもしれません。
 Cさんも同一の先生が見えています。でも、Cさんが思い出しているのは、小学校1年生時代の場面ではなく、小学校6年生の時代、それも卒業式の日、1年生の時の担任の先生が見送ってくれた場面が見えています。Cさんは6年生になるまで、1年生の時の担任と向き合えなかったのかもしれません。別れの瞬間になって、初めて相手を見ることができたのかもしれません。
 Dさんは完全に思い出すことができませんでした。なぜ、Dさんは忘却してしまったのでしょう。そこには無数の仮説があると思います。特別思い出したくもない何かを担任との間で経験してしまったかもしれないし、記憶に残るような特別な体験を何もしなかった可能性もあり得るのです。
 私たちは一人一人に個性があり、差異があります。それは異論のないところだと思います。差異があるということは、同じ場面でもそれぞれが違った体験をしているということが生じるのです。ここに「うつ病」と診断された3人の人がいるとします。3人とも同じ診断名を頂いているのですが、それぞれが異なった「うつ病」体験をしているのです。
 もし、私の記述する事例なんかを読んで、あなたにはまったく理解できないとしても、不思議ではないのです。それはあなたと事例のクライアントが異なるからであります。あなたの体験していることと、クライアントの体験していることとは、表面的には同種のものであっても、内面的にはまったく異なっているかもしれないのです。
 私たちがそれぞれ異なっているからこそ、一人の人間を理解することに、あるいは、一人の人間の体験を記述することには、相当な困難が伴うのです。我々がすべて同質であれば、記述はもっと簡単なのです。

 記述される事柄が記述困難なものであるが故に、また、それを十分に伝達する能力が私に欠けているが故に、「何が書いてあるか分からない」という批判は素直に受け入れたいと思います。
 しかし、一言、敢えて私からも反論させていただければ、「何が書いてあるか分からない」という人は、まず、人間や自分に関してしっかり考えてみることをお勧めします。
 よく「哲学は難しくて、何を言っているか分からない」と言う人がいますが、自分自身がしっかり哲学をしていくと、他人の哲学がよく分かるようになるのも事実であるからです。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)