<Q018>自分でやります

<Q018>「私は自分でやります」

<状況と背景>
 実は、これは前の<Q017>の続きなのです。つまり、「カウンセリングなんておかしな人の行く所でしょう。私は(そんな所のお世話にならず)自分で何とかします」ということをこの人は述べられたのです。前回はこの質問文の前半部分を取り上げ、今回は後半部を取り上げているのです。

<A>
 カウンセリングは万能ではないし、それ以外の方法もいくつもあると私は信じています。ただ、カウンセリングやそれに類する行為を一人で遂行しようとすると、とてもしんどくなるということは、私の体験からも見聞してきた例からも、言えるのです。
 この人の「自分でやります」という言葉には、独立独歩でやっていくという気迫があるわけではなく、むしろ「カウンセラーの世話になる連中と同じになりたくない」という感情が濃厚に現れていました。それは質問の前半部分と後半部分とを続けて読むと窺えるものであります。ここには優劣の視点、他者蔑視の思想があり、「非人間化」する言動であるように思われるのです。
「自分でやります」式の発言は、この人に限らず、他の方々からも耳にしますが、「自分でやるとおっしゃるのなら、どうぞそうなさってください」としか、こちらは言いようがないものです。
 しかし、この発言をした人に限らず、この種の発言をする人のやはり多くが、自力で、独立独歩で、どんな苦難に対しても自ら耐え忍んでやり遂げるというような意気込みがあるわけではありません。私はそのように感じています。「自分でやります」「自力でやります」という言葉の背景には、むしろ、その人の自己喪失感があるように感じられることもあります。どこかに自己喪失感情があって、その自己喪失感情を否定するために「誰の力も借りずにやり遂げた」という実績が必要になるのかもしれません。

<補足と説明>
「心の病」に関する優劣思想、蔑視思考について述べておくことにします。「カウンセリングや精神科医にかかる人は劣っていて、そうならない自分は優れている」という形式の思想をお持ちの方もおられるので、少しその観点について私の考えるところのものを述べてみたいと思います。
 例えば、ギャンブルで身を持ち崩してしまう人たちがいます。私はギャンブルをしないので、今のところ、そういう事態に陥る危険性はありません。私は彼らをダメな人たちだとかアホだなどと言って軽蔑することもできます。でも、本当に私は彼らよりも優れているのでしょうか。そこにあるのは本当に優劣の違いなのでしょうか。
 彼らは体験します。ギャンブルへの誘惑、一攫千金の魅力、一か八かの勝負に出る時のスリルなどを。私はそういうものを体験したことがないし、体験したいという気持ちもありません。もしそうであれば、私と彼らとの間にあるのは体験の種類の違いだけということにならないでしょうか。
 違った体験をしている両者を比較して、その体験の差異を度外視して、自分の方が優れていると思い込むことは、賢い思考とはとても思えないのです。
 もし、仮に、私が息抜きの感じでギャンブルをしたとしましょう。恐らく、自分は大丈夫だと私は自分自身に安心しているでしょう。やがて、ギャンブルの回数が増える。それでも彼らのようにはならない、なぜなら~と自分に都合のいい説明をするでしょう。どこかで自己欺瞞を起こしているのですが、それに気づかないまま続けてしまうでしょう。
 そんな風にしてギャンブルに入れ込むようになると、さすがに不安を覚えるかもしれません。彼らのことが他人事ではなくなっているかもしれません。それでも、自分は大丈夫だ、彼らよりも優れていると信じているかもしれません。不都合なことに覆いをかけるためにそう信じ続けているかもしれません。
 さらに状況が悪化するとします。その時には、かつて軽蔑していた人たちと同じものを私も体験していることでしょう。彼らと同じように身を持ち崩して、おそらく、私は愕然とし、自分自身に絶望してしまうかもしれません。
 こんなたとえ話を延々と綴ってきたのは、そのような体験をした人とお会いすることも少なくないからです。
 あるクライアントは「自分がうつ病と診断されるなんて思ってもみなかった」と語ります。それまで、彼にとって、「うつ病」なんて他人事だったし、むしろそういう「心の病」に罹る人のことを「怠慢だ」と彼は考えていたのでした。その頃の彼の思考には人間に対する差別感情があったのです。でも、ひとたび、彼自身が彼らと同じような体験をしてしまうと、自分の優位意識なんて吹っ飛んでいってしまったのでした。彼もまた絶望的な気持ちで朝を迎える体験をして、初めてそこに優劣の差なんてなかったことに気づいただろうと思います。

 さて、「自分でやります」と言う人に対して、私は「どのようなことをするつもりですか」と尋ねたことがあります。彼はそれに答えることができず、どうやら具体的なことを何も描いていないようでした。
 「自分でやります」というこの態度や感情はその人の抱える「病理」や「問題」と深く関係していることがありますので、この態度や感情そのものが改善される必要があると私は考えています。しかし、彼らにとっては、この態度や感情は「まとも」なものとして体験されており、「正しい」ことだと認識されているのです。
 彼らが「自分でやった」結果、どういうことになるでしょうか。私はある程度は予測できるように感じています。
 一つは、彼は生涯にわたってそれから逃げ続けるでしょう。それに向き合わないように自分自身をごまかし続けることでしょう。それでも彼には「自分でやった」と体験されているだろうと思います。
 とにかく、「自分でやります」という態度は、人とも自分とも向き合わない態度の表明であると私は考えています。言い換えると、一切に向き合わないという生き方をしている人から生み出される言葉ではないかと私は考えています。
 もう一つは、この苦しい体験を精神が同化していくことでしょう。例えば、極限状況に陥った人たちには、その状況になんとか同化しようとする傾向が生まれることが知られています。感情を麻痺させたり、無気力になったりして、その状況を乗り切るわけなのですが、これは精神というものがその主体を維持し、生を持続させようと働くからであります。
 従って、痛みは痛みとしてもはや経験されなくなるということが生じるわけです。それを「治癒」と体験している人もおられるように私は思います。しかし、それで苦しまなくなるということが、そのままその人の「改善」を表しているとは限らないわけであり、精神がそれを同化するのと引き換えに、多くの有益な資源をその人が失っていることもあるのです。
 つまり、彼の抱える「問題」は、彼の一部として違和感なく君臨するということであります。彼は、もはやそれが当然在るものとして体験しているので、それが「問題」として認識されることがなくなり、彼はそれで苦しむことがなくなるのです。この状態に至ることを「自分でやった(治した)」と表現している人もおられるのです。
 そうした「自力療法」については何かと問題もあるので、詳しくは別の機会にて述べたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)