<Q012>「書いてきたものを読みます」

<Q012>「書いてきたものを読みます」

<状況と背景>
 主に初回面接でこれをやる人があります。私は個人的にこういう人を「音読クライアント」と呼んでいますので、ここでもその呼称を用います。
 前回の<Q011>にて準備してくる人のことを取り上げましたが、準備する人と準備したことを実演する人とではまったく違った問題であるということを最初に指摘しておきます。
 準備してくる人より、それを実演する人の方が、つまり「音読クライアント」の方がより重篤な問題を抱えていることが窺われるのです。この人たちは、多くの場面で適応できず、失敗の多い人生を送り、人間関係でいくつもの傷つきを経験しています。なぜ、そうなるのかは説明の部分で取り上げることにします。
 そして、この人たちは、面接料ではなく、「賠償金」を支払ってもらっているという感覚が私にはあります。これも後に説明しましょう。

<A>
 私はクライアントに対して誠実に仕事をしたいと望んでいます。私がクライアントに対して、また、自分自身に対しても誠実であれば、「音読クライアント」から原稿を取り上げるでしょう。それ以上音読することを止めさせるでしょう。
 ところが、それをされると、パニックになったり、激しく憤慨する人もあるので、最近ではそれをしなくなりました。このやり方が彼らにとっては唯一の防御策となっていることもあるので、迂闊に取り上げることもできないわけであります。
 そこで、私はクライアントに対して不誠実な態度を採ることになるのです。彼らの音読を止めさせるということを私はしなくなったのです。その代り、「音読クライアント」にはカウンセリングの失敗を経験してもらいます。
 このやり方は、後で述べるように、必ず失敗するやり方なのです。彼らはそれを知らないだけなのだと思うのです。実際、このやり方で上手くいった人なんていないのです。
 彼らは、ただでさえ失敗の多い人生を送ってきているのに、カウンセリングでも敢えて失敗を経験してもらわなければならないのです。それも心苦しいことなので、何とかそれを回避しようと思って、こちらが取り上げても、彼らはそれを理解できないのです。
 彼らは、このやり方が上手くいくと信じているのかもしれませんが、このやり方自体が一つの「症状」なのです。彼らは自分が何をしているのかを知らないだけなのだと思います。従って、それを取り上げるよりも、それが害の多いやり方であるということを身を持って知ってもらうことの方が大事であると、今では考えているわけであります。

<補足と説明>
 いくつものことを説明しなければなりません。一つずつ述べていきます。
 まず、この「音読」行為でありますが、これはカウンセリングの場に適応できていないことを示しているのです。他の場面でも適応できないのと同じように、彼らはカウンセリング場面においても「不適応」をしているのです。ただ、彼らはそれが「不適応」だとは気付いていないことも多いのです。
 まず、カウンセリングは話し合いの場であり、何かを発表する場ではないのです。多くのクライアントはこの点を理解してくれているのですが、彼らはそこを理解していないように私には思われるのです。従って、彼らはその場が要請してくる行動を採択できていないという意味で「不適応」を起こしているということになるわけです。

 次に、このやり方がなぜ上手く行かないのかということについて、私なりの見解を述べましょう。
 まず、私たちは自分のことについて書いてきたものを読むという場面が、これまでの人生において、どれくらいあったでしょうか。これを読んでいるあなたもご自身を振り返ってみていただきたいと思うのですが、いかがでしょう。
 私の経験では、そういう場面は一度も経験したことがありません。発表やプレゼンテーションで原稿を読むということはあるのですが、自分のことについて原稿を読んだことなど私は一度もありません。
 つまり、自分のことについて書いてきたものを読むというのは、日常場面でほとんど経験しないことなのです。この点をまず押さえておきたいと思います。
 さて、「音読クライアント」が音読する原稿ですが、これはその人のことが時間系列順に綴られているのです。こういう話し方をあなたはどれだけ経験したことがあるでしょうか。ちなみに、やはり私にはそういう経験は一度もありません。
 通常、私たちがお喋りをする時には、最近のことから過去のことへと話が展開することが多いのです。最近の出来事を話していると、連想が働いて(ここが重要)、過去のことが思い出され、それをまた話題の俎上に乗せるということをしているのです。
 あなたも自身のお喋りや会話の場面をよく観察されるといいでしょう。そんなに時間系列順に話すことなんてほとんどないのではないでしょうか。
 要するに、自分の経歴を時間順に追って説明するというのは、私たちは普段の生活の中で経験しないことであるということなのです。
 従って、「音読クライアント」は、おそらくカウンセリング場面に対して緊張感をお持ちなのだと思うのですが、その緊張する場面において、敢えて不慣れな、日常ではほとんど経験することのない方策で臨まれるということであります。言うなれば、「音読クライアント」は自分で自分を窮地に追いやってしまっているのです。
 それだけではありません。準備してきたものを読むという行為は、自分に制限を加えていくことになります。その他の一切の自由を放棄しなければならないからです。おそらく、最初の1,2分は書いたものを読むという行為は苦にならないでしょう。でも、これを20分とか30分とか続けると、次第に窮屈になってくるのではないかと思いますし、最後まで読み通さなければならないとか、途中で止めるわけにはいかないとかいったプレッシャーも生まれてくるのではないかと私は察します。
 そうなると、この人たちはますます自分の首を絞めることになるわけであります。

 次に、この人たちが支払うのは面接料ではなく、「賠償金」であるという点を述べようと思います。
 まず、あなたの目の前でただ書いたものを読んでいるという相手がいたとすれば、あなたはどんな気分になられるでしょうか。
 通常の人間関係では、これはけっこう失礼な行為となるのではないかと私は思うのです。目の前に相手がいるのに、相手の方を見ることなく、原稿に目を落とし続け、ただ書いたものを相手に聞かせるということですから、はっきり言えば、相手が人格的存在であることを無視している行為となるのです。
 従って、「音読クライアント」は音読することによって、私の目の前で音読することによって、私の存在価値を無価値化しているのです。もはや私という人格的な存在は無に貶められているのです。私はそのように感じるのです。そして、どうして私がこの場にいるのか、「音読クライアント」の音読に付き合わなければならないのか、その存在理由さえ私は確立できなくなるのです。
 音読する側からしても、相手がどんな人格であろうと、もはや関係がないのです。書いてきたものを読んで聞かせるだけの相手であるからであります。そしてそれを最後まで読み通して、「以上、読みました。次はあなたが答える番です」とばかりにバトンを渡してくるのです。人格的な接触など生まれることはなく、彼らもそれを経験することがないのです。
 彼らがそれをすることで、私がどれだけ傷つくか、おそらく理解されないことでしょう。彼らからすると、自分の方がカウンセラーから傷つけられたとか、否定されたとか言うことでしょう。
 でも、私はまだ耐えられるのですが、その他の人間関係ではこれに耐えられない人も多いのではないかと思います。「音読クライアント」たちはしばしば言うのです。「なぜ、人間関係がうまく行かないのか分からない」とか、「なんでみんなが私を避けるのか分からない」などと訴えるのです。
 他の場面では、きっと、書いたものを読むだけというのとは別の方策をこの人たちは取るのだろうと思いますが、結局、彼らが良かれと思って採用するやり方は、周囲の人の困惑とか傷つきをもたらしてしまうのでしょう。だから周囲の人がこの人を敬遠してしまいたくなるのだろうと私は思います。

 以上のような背景がカウンセリングの失敗を当人にもたらすのですが、まだ、他にもあります。
 通常の話し合いでは連想が働いて、過去の記憶が蘇ったり、感情が込み上げてきたりするのですが、これは要するに、心が動いているということであります。書いたものを読むというのは、こうした心の動きの一切を拒絶していることになるのです。心を働かせることなく、書いてきたものを機械的に読むだけとなる例も多いためです。
 さらに、書いてきたものを音読するだけというのは、そこに一切の人格的な交わりを認めないということでもあります。こちらもそれに介入できないし、音読する側も書いてきた原稿から離れることもなく、意見や感想を交換し合うこともないのです。それはただの報告にしか過ぎないのです。人格的な接触もなければ、交わりも不要にしてしまうのです。
 従って、「音読クライアント」がカウンセリングを受けて何もならなかったと訴えるのは、当たり前すぎるくらい当たり前なことなのです。こちらからすれば、これほど自明な結果はないくらいなのであります。
 そして、その場が要請していることに適応できないこと、自分を窮地に追いやるような方策が最善の策だと考えられていること、心を動かさないようにすること、人格的な接触を拒否すること、これらはすべてこの種の人が抱えている根本的な「病理」が生み出していることであると、私は考えています。
 準備するということは、自分を閉ざすことなのです。準備してきたものを実演するこの人たちはそれ以上に自分を閉ざしているのです。
 彼らは言うでしょう。準備していないと上手く話せる自信がないなどと。でも、しどろもどろで話す方が、生身のその人が感じられるのです。ここには接触があり、心の動きが生まれているのです。そして、こうした接触や動きがカウンセリングに展開をもたらしてくれるのです(<Q011>参照)。
 もう一つ言えば、カウンセリングを受けるにあたって、予め原稿を用意しておくということは、そのカウンセリングの場をすべて支配すること、自分のコントロール下に置くことを意味しているのです。自分も相手(カウンセラー)の自由を制限するのです。実際、「音読クライアント」はそういう形で状況を完全にコントロールしようとする傾向の人が多かったように思いますし、その他の人間関係場面においてもその傾向が見られるように私は思いました。彼らは自分が思っている以上に支配的なのです。自由であることが脅威なのだと思います。

 しかしながら、「音読クライアント」は本人が姿を見せているだけましな方であります。代理で音読させる人もあるからです。これは、例えば、母親などに原稿を持たせて、母親にそれを読ませるか、カウンセラーに読ませるという人です。こういう姿を見せない、「代理音読クライアント」はもっとタチが悪いのですが、それはいつか別の機会に論じたいと思います。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)