<Q010>気にしないようにします

<Q010>「気にしないようにします」

<状況と背景>
 このような発言をされる方は幾人もおられるのですが、ここで私が想定しているのは、家族との確執を長年経験してきた人で、今後は家族を気にしないで生きていきますとおっしゃられるクライアントたちであります。主に初回面接で、今後カウンセリングを受けないという方向で考えておられる方々から発せられるものです。
 私はこの種の発言を、クライアントが家族から独り立ちしていく決意の言葉として受け取ると同時に、極めて神経症的思考として受け取っています。それは後々明確になっていくことでしょう。

<A>
 この質問(というか発言)に対して、私は「それができるものならやってごらんなさい」としか言いようがないのです。それが私の「答え」ということであります。
 本人にはそれが最善の策だと信じられているのですが、私からすると、それは必ず失敗する方策なのです。いきなりそれを指摘することも憚られるので、上記のように答えるしかないわけであります。

<補足と説明>
 自分の生まれ育った家族のことを気にしないようにするなんて、本当にできることでしょうか。私はそこにまず疑問を覚えるのです。その人にとってとても大きなウエイトを占めている部分だと思うので、それを気にしないようにするなんて不可能なことではないかと考えています。
 それよりも、まず、重要な点は、家族のことを気にしないでいられるのであれば、この人たちはとっくにそれをしているはずなのです。今ではそれができているはずなのです。それができないからこの人はカウンセラーを訪れているのです。本人たちはそこが見えていないという気がしています。
 それと、逆説的なことですが、ある対象を気にしないでいるためには、その対象を過剰に気にしていなければならないのです。それが気になるという前提がなければ、それを気にしないようにするという行為が生まれないのです。従って、気にしないようにするというやり方は、今まで以上にそれを気にしなければならないというやり方になるわけであります。
 なぜ、そういう逆説が成り立つかと言うと、このやり方がある種の二分法に支配されているためであると私は考えています。つまり、それはあることを気にするか気にしないかのどちらかしかないという二分法であるわけですが、両者は相補的な関係にあるために逆説が成立してしまうということなのです。
 人はよくこの過ちを犯してしまうものだと思います。Aかnot Aかという二者択一は、Aを選択するためには常にnot Aの存在がなければならず、not Aを選択するためには常にAの存在が必要になるのです。どちらか一方を選んでいるようであって、実は両方を採択してしまっているのです。従って、Aかnot Aかという選択ではなく、ここに第三の要素が入らなければならないのです。つまり、A、not Aを選ぶかBを選ぶかという選択にしていかなければならないのです。
 今のことを別の言い方でいうと、選択されるのがAであろうと、not Aであろうと、another Aであろうと、Aの文脈内でなされる選択はどんなものであれ、Aに関わりを持ち続けることになるということです。別の文脈Bが持ち込まれてくることが肝心になるわけであります。
 そのため、家族を気にしないでおこう、気にしないでおこうと常に意識することは、家族を常に意識していなければならないということになるわけです。だからこのやり方は失敗に終わるのです。家族のことを今まで以上にこの人たちは気にするようになるのです。

 さらに、話を混ぜ返すようで恐縮なのですが、この失敗するやり方に成功してしまう人たちもおられるのです。それはどのような人たちかと言いますと、強迫的な人たちであります。
 強迫性障害と診断されるような人は、ある意味では、ある対象を気にしないというやり方に成功していると言えるのです。その代り、その人は人生上の多くの貴重な資源を浪費してしまうという代償を支払わなければならなくなっているのです。
 ある対象を気にしないために、この人たちは、強迫的な行為に没頭しなければいられなくなっているのです。従って、気にしないようにするというやり方で成功しても、決して望ましい状態が手に入るわけではないのです。
 このことは少し考えてみると理解できることなのです。この人たちは家族のことで心が占められています。それぞれの人はそのようになってしまう状況や背景、歴史を持っておられるのです。そのような条件がある人にとって、家族のことで心が占められてしまうというのは、その人にとって「自然」な反応であると見ることができるのです。
 それを気にしないようにするというのは、「自然」な反応を放棄して、そこに「不自然」な態度を持ち込むということを意味しているわけです。そうして、自分にとって「不自然」なものを同化させようと試みるので、いつしかそれはその人に「歪み」をもたらすことになってしまうのです。私はそのように考えています。
 従って、どのようなBがもたらされるのが望ましいことであるかという問題が生じるわけであります。この疑問を踏まえて、もう少し続けさせていただきます。

 クライアントがこの二者択一の選択をしようとする時、私は敢えて第3の選択肢を見出していくことを提案してきました。しかし、中には、それを自分の決意を否定されたというように体験するクライアントもあり、なかなか上手く彼らに伝わらないという場面もよく経験するところです。だから、この場を借りて、少し丁寧に述べておきたいのです。
 気にしないようにするというのは、ある種の否認をするということなのです。現実や過去など、なんらかを否認することなのです。自分の中にありながら、自分のものではないとして切り捨てるというやり方になるわけです。これが上手くいくということは、先述の強迫行為の話のように、その人が相当悪くなってしまうということなのです。それを未然に防ぎたいという思いから、私は前述の提案をするわけなのです。
 この第3の選択肢なるものは、あくまでもその人から生まれるものでなければならないのです。私が与えられるものではないのです。それはその人の中から発見され、創造されていかなければならない選択肢であるわけなのです。
 従って、気にしないようにするからカウンセリングは必要ないと言う人ほどカウンセリングのような作業が必要になるわけなのです。
 第3の選択肢は見出され、創造されなければならないと申し上げましたが、これは必ずその人の中に在るものなのです。どの人にもそれが備わっているものなのです。ただ、そこに目が行き届いてなかったり、活かされていなかったりしているのです。そこが活性化され、意識に止まるためには、カウンセリングを通して、しっかり内面を見つめ、語り直し、掘り起こしていくという作業が必要になるわけなのです。
 外側から与えられたものは、結局は、家族に対して抱いている感情と同種の感情を抱かせることになると私は思うのです。なぜなら、自分の家族とは、子供の視点に立てば、外から与えられたように体験されていることも多いからです。従って、外から与えられた解決策や選択肢は、やがてはそれを気にするか気にしないかの問題に行き着いてしまう可能性があるということなのです。同じ問いに行き着いてしまうのです。
 それを気にしないようにして生きるという方策は、結局のところ、その人を同じ位置に滞留させることになるわけです。私はそこをもう一歩進めてほしいと願うわけであります。

(文責:寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)