<Q002>医者ではないか

<Q002>「医者(病院)ではないのですか?」

<状況と背景>
 この問いは、<Q001>の「どういう所ですか」とセットになって発せられることの多い質問であったように思います。
 この質問をする人は、「医者(病院)であってほしい」と期待している人もあれば、「むしろ医者(病院)であってほしくない」と期待している人もあるように思います。また、質問者の「医者(病院)」に対するイメージによって、問いの意味合いも異なってくるでしょうし、ここでの私の返答の受け取られ方も異なってしまうだろうと思います。
 どちらの期待を抱いているか、どのようなイメージを抱いておられるかは度外視して、あくまでも額面通りに質問を受けとり、回答を試みることにします。だから、この回答は、おそらく、この質問を発する人にとっては納得のいかないものとなるでしょう。

<A>
 お医者さんは医学を専攻された方であり、私のようなカウンセラーは心理学を専攻した人間なのです。
 医師は医学的な目で患者を見るでしょうし、カウンセラーは心理学的な目でクライアントを見ることでしょう。依って立つ基盤が異なるので、人間に対する理解の仕方や接し方、対処の方法などにも違いが生じて当然なのです。
 私は医師ではないので、診断や投薬、その他の検査や医療行為に該当するようなことは致しません。医師はむしろそれらが仕事であります。
 もっとも顕著な違いは、カウンセラーはクライアントに触れてはいけないということにあります。私はそこを特に重視します。医師は患者さんに触れ、触診します。それが許されています。カウンセラーはそれをすることは許されないと私は考えています。
 カウンセラーの中には身体方面からのアプローチをされる方もありますし、グループワークなどでは参加者同士での身体的接触の場面があったりしますが、私はそれらすべてに反対なのです。
 それはさておき、医師はその人の症状としての「病」に焦点を当てるだろうと思います。医学的な観点からみてこれは当然のことであります。私はむしろ、その人の「病」を生じさせることになった生き方に焦点を当てるように心がけたいと考えています。

<補足と説明>
 精神医学と心理学とは、ある部分において相互に関係を持っているので、両者を完全に分割するわけにはいかないものです。
 それでも、お医者さんはやはり医学的な目で人を見るのです。より症状に注目する視点を持ってらっしゃるのです。私はむしろ、クライアントの生き方や性格に注目する傾向があると、自分ではそのように理解しています。
 それが「心の病」であれ、「身体の病」であれ、「病」というものはその人の生に関連して生じてくるものなのです。極端な言い方をすれば、その人の生き方や歴史が、その人の「病」を決定していると言えないこともないのです。
 つまり、どんな病であれ、それは

(それまでその人が培ってきたもの)+(病が発現する状況)=「病」

といった図式で示すことができると思います。
 いささか思い切った単純化ですが、必ずその人の「生」の部分と「発病状況」のセットが見られると考えています。
 私の個人的な考えですが、医学的な観点とは、上の図式において、右側へ行くほど重点が置かれるのですが、心理学的な観点はより左側に重点が置かれているのです。何となくでもその違いをご理解していただければ結構でございます。

 もう一つ、医学的観点と心理学観点に関して、私が個人的に考えていることを綴ろうと思います。これは実際に私が経験した例であります。
 精神科に通いながら私のカウンセリングを受けている人が話してくれたことです。その人は病院で「薬が合わない感じがする」と訴えたところ、医師は「それじゃあ、薬を代えましょう」と応じたのでした。これが医学的観点なのです。
 その人は自分の訴えに医師が応じてくれていることは理解できるのですが、「何かが違う」という違和感のようなものを抱えておられました。
 そのことが話題になった時に、私は彼に「本当は、今とはもう少し違った関係をその医師との間に築きたい、ということを言いたかったのではないでしょうか」と尋ねてみました。これが私の考える心理学的観点なのです。
 ちなみに、私の質問に対して、その時には彼はよく呑み込めなかったようでした。でも、翌週、来談された時にそれを実感したと彼は話されました。確かに、彼は医師と関係の在り方を変えたいという気持ちがあったようだと気づかれた上に、何となくこの医師との間で相性の合わない感じがしていたということを思い出されたのでした。
 気づいたり思い出したりということが不可解だと思われる方もいらっしゃるので、彼の話をもう少し続けましょう。彼はその医師を、医師として尊敬し、信頼する気持ちが確かにあったようです。しかし、それはあくまでも「医師」という外的な面に関しての信頼でした。また、彼はその医師を「信頼しないといけない」という気持ちもあったようです。それらの気持ちが前景に出ているために、「ひょっとしたらこの医師とは相性が合わないかもしれない」といった不安は、感じられていたとしても、意識には上がってこなかったのだと思われます。意識に上がってこなかった方を指摘されて、それによって、彼はそういう不安を経験していたということが見えるようになったのです。
 気づいたり、思い出したりというのは、見えていながら見えていなかったものが改めて見えるようになるということなのです。それが見えることによって、次の段階のことが考えられるようになるのです。
 彼はその医師と合わない何かを体験しています。それは何なのだろうか、これを処理するためにはどういうことをする必要があうだろうか、合わないと感じているのは医師のどの側面だろうか、個人的な経験からそれがもたらされているのだとすれば、その経験はどんなものだったのだろうか、そういったことが考えられるようになることは、「薬が合わない」と訴える次元から比較すると、はるかに多くの前進が見られ、且つ、展開が見込まれるのです。
 さて、話を戻しますと、「薬が合わない感じがする」という訴えに対して、医学的観点で言えばそれは純粋に薬の話になるのです。心理学的観点で言えば、その訴えの意味とか、その訴えがなされる背景などの話になるのです。従って、「薬が合わない感じがする」という言葉は、彼の中で「不調和な何かがある」という心理を表現している言葉として考えてみるわけであります。
 彼は薬の問題としてそれを提起しました。薬というのはそれを処方する医師と服用する患者さんとの関係によって効能が変わってくることもあります。プラセボ効果の実験はそのことを示しているように私には思われます。従って、彼が処方された薬が合わない感じがすると訴える時には、医師との関係の何かがそこに含まれている可能性があるわけなのです。それで私はそのように問うてみたのです。
 ここでは薬が取り上げられましたが、言葉や行為もまた関係の在り方によって意味が異なるものです。もし、彼がそこで「寺戸先生の言葉が合わない感じがする」と言われれば、私は私の発する言葉の問題と考えるだけでなく、私と彼との関係において何か調和しないものを彼が体験しているという面からも考えるでしょう。

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)